。すまなかったわね。」
お浜――「からかうのも、事によりますわ。奥さんがそんな気持でしたら、私にも考えがあります。」
 お浜は、ぷんぷん怒って、次郎を抱いて帰ってしまった。そして、それっきり、お民から何度使いをやっても顔を見せなかったばかりか、月々の飯米さえ受取りに来ようとしなかった。で、とうとうお民の方が根負《こんま》けして、自分でお浜の家に出かけることになった。
 今度は、無論お猿の話なんか、どちらからも出なかった。それどころか、お民はこんなことを言って、お浜の機嫌《きげん》をとったのである。
「この子は八月十五夜の丁度《ちょうど》月の出に生まれたんだよ。だから、きっと今に偉くなると思うわ。」
 お浜は、それですっかり気をよくした。そして、それ以来、「八月十五夜の月の出」が、いつも二人の話の種になった。話の種になっても、それはちっとも不都合ではなかったのである。と言うのは、次郎の生まれた時刻は、実際その通りだったのだから。
 尤《もっと》も、その時刻に生まれたことが、果して次郎にとって幸福であったかどうかは、疑わしい。それはおいおいと話していくうちにわかることである。

    二 お玉杓子

 次郎は、お浜の娘のお兼とお鶴とを相手に、地べたに蓆《むしろ》を敷いて、ままごと遊びをしている。場所は古ぼけた小学校の校庭だが、森閑《しんかん》として物音一つしない。周囲は、見渡すかぎり、黄金色の稲田である。午後の陽《ひ》がぽかぽかと温かい。
 この光景は、次郎の心に、おりおり蘇《よみがえ》って来る、最も古い記憶の一つで、たぶん、彼の五歳頃のことだったろうと思われる。
 お浜一家は、村の小学校の校番をしていた。老夫婦にお浜夫婦、それにお兼とお鶴、都合六人の家族が、教員室のすぐ隣の、うす暗い畳敷の部屋と、その次の板の間とを自分達の住家にしていたのである。そしてそこへ割りこまされたのが次郎であった。
 全体、恭一にせよ、次郎にせよ、何でわざわざこんな家を選《えら》んで預けられたのかというと、それは、母のお民が、子供の教育について一かどの見識家《けんしきか》だったからである。彼女は、槍一筋《やりひとすじ》の武士の娘であった。そして幼いころから幾十回となく、孟母三遷《もうぼさんせん》の教というものを聞かされて、それになみなみならぬ感激を覚えていた。で、自分に子供が出来たら、機会を
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