じっと噛み殺した。そして、とうとう夜があけるまで、蚊にさされなから、蚊帳の外を芋虫のようにころげまわっていた。
六 飯びつ
「ご飯だよ。」
翌朝次郎が、ぽつねんと人気《ひとけ》のない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。
やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗《ちゃわん》のふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。
次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。
ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。
「ご飯どうして食べない。」
恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。
「ご飯たべない、ばかあ――」
俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい。」
と言った。次郎はいきなり右|臂《ひじ》で俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居に躓《つまず》き、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。
彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。
お民が出て来て、恭一に言った。
「どうしたんだえ。」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ。」
恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。
お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。
恭一もすぐそのあとについた。
次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。
そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。
幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した
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