という段になって彼は当惑《とうわく》した。あまり手を使いすぎると、眼をさましていることが発覚しそうである。彼は先ず頭の方から這入る計画を立てた。しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかって、うまくいかない。で、今度は足の方から這入ることにした。これも容易には成功しなかったが、それでも頭ほどに不便ではなかった。それは、下駄を穿《は》く時の要領《ようりょう》で、うまく足指を使うことが出来たからである。
こうして、ともかくも、彼は腰の辺まで蚊帳の中に這入ることが出来た。蚊の襲撃《しゅうげき》から完全に遁《のが》れるためには、あとわずかな努力が残されているのみであった。彼はその努力の機会をねらって、一息入れながら、かすかに眼を開いて母の様子をうかがった。
すると、どうだろう、蚊帳の内側では、母がきちんと坐って、眼を皿のようにして自分の方を見つめているではないか。
次郎はもうこれ以上身動きしてはならないと思った。
実は母に覗かれているという意識があったればこそ、こんな手も使ったのであるが、こうまともに見られているのだとは、夢にも思わなかったのである。
しかし、その間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲って、彼の忍耐力に挑戦した。彼はそのたびに思わず芋虫のように体を左右にまげた。そして最後にとうとう両手を使って、一挙に蚊帳の裾を頭の方に引っぱってしまった。
「次郎や。」
この時、気味わるく落ちついた母の声が、彼の耳をうった。
「お前、誰にそんな芸当を教わったの。」
次郎は返事をする代りに、軽い鼾をしてみせた。
「次郎ったら。」
母の声は急に鋭くなった。次郎はびくっとしたが、今更どうすることも出来なかった。すると次の瞬間には、お民の指が彼の耳朶をつかんで、再び彼を蚊帳の外に引きずった。
次郎は、かつて直吉の耳朶に、全身の重みを託そうとしたことがあった。しかし、自分自身の耳朶に自分の体を託した経験は、全くはじめてである。彼は思わず悲鳴をあげた。両手は思わず母の手を握った。それで耳朶の痛みはいくらか減じたが、その代りらくらくと蚊帳のそとに引きずり出されてしまったのである。
「そこに夜どおしで、そうしているんだよ。」
母はあらあらしい息づかいをしながら、寝床に這入った。
次郎の眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。しかし彼は喉《のど》にこみあげてくる泣き声を、
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