人が、だあれもいなくても、もうこれからは大丈夫ですわね。……たった一人ぽっちになっても、きっと、きっと坊ちゃんは誰よりも正直な、お偉い人になれるでしょう。」
次郎はだしぬけにお浜の膝にしがみついて、顔をおしあてた。惑乱《わくらん》と寂寥《せきりょう》とが、同時に彼の心を捉《とら》えていた。「ひとりぽっち」という言葉が異様に彼の胸に響いたのである。
お民の眼からも涙が流れていた。
お浜は、次郎の背をなでながら、
「でも一人ぽっちになんか、なりっこありませんわね。お父さんがいらっしゃるし、こちらのお祖父さんやお祖母さんもいらっしゃるんですから。それにあたしだって、遠くからいつも坊ちゃんのこと神様にお祈りしていますわ。」
「次郎や、――」と、お民はぬれた眼をしばだたいて、じっと何かを見つめながら、
「あたしは、乳母やよりもっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるわよ。だから、……だから、……腹が立ったり、……悲しかったりしても、……」
そのさきは息がはずんで、誰にも聞きとれなかった。お祖母さんは、さっきから鼻をつまらせて二人の話をきいていたが、
「今日はもう話すの、およしよ。そう一ぺんに話して疲れるといけないから。」
「ええ、よしますわ。……ああ、あたし、これでせいせいしました。」
そう言ってお民は眼をとじた。
その晩は、むろん次郎とお浜とは同じ蚊帳の中に寝た。お浜は、暑いのに、夜どうし次郎の肩に自分の手をかけては、引きよせた。次郎は、自分の手先がお浜のたるんだ乳房にさわるごとに、はっとして寝がえりをうった。彼はよく眠れなかった。それはお浜に引きよせられるからばかりではなかった。このごろ彼の胸にはっきり映り出した母の澄みとおった愛と、ひさびさでよみがえった乳母の芳醇《ほうじゅん》な愛とが、彼の夢の中で烈しく熔けあっていたからである。
三九 母の臨終
お浜に会ってからのお民は、不思議なほど静かに眠った。それは、興奮のあとの疲労というよりは、すべてを処理し終ったあとの安心から来る落ちつきであった。しかし、それと固時に、冷たい死は刻々に彼女に近づきつつあったのである。
翌日は、医者の注意で、電報や使いが方々に飛ばされた。午すぎには、本田から俊亮が恭一と俊三とをつれてやって来た。その日は、しかし、幸いにして何事もなかった。お民は、眼をさましては周囲
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