せん?」
「うむ、……そりゃ、酒はのんでも、心が真っ直ならいいだろう。」
次郎は満足しなかった。しかし、それ以上、強いて訊ねてみたい気もしなかった。そして暫くは、二人の足音だけが、闇に響いた。
「次郎――」
正木の老人は、村の入口に来たころに、やっと再び口をひらいた。
「世の中で一番偉い人はな、お前の父さんのように、どんな人でも可愛がってやれる人じゃ。父さんが、今日、いろんなものを売ったのも、困っている人たちを、これまでに沢山助けたため、金が足りなくなって来たからじゃ。お前、父さんのように偉い人になれるかの。嫌いな人が沢山あったりしては駄目じゃが。」
次郎の頭には、すぐ祖母と母との顔が浮かんで来た。そして老人の言葉を、自分に対する訓戒と考える前に、父と彼ら二人とを心の中で比べていた。
「母さんも、お祖母さんも、だから偉くないや。」
次郎は吐き出すように言った。
「そうか。……では次郎はどうじゃ?」
「僕も偉くないや。」
次郎の答は、老人の予期に反して、極めて率直だった。
「偉くなりたくないかの?」
「なりたいけれど、僕……」
「駄目かな。」
「だって、僕……乳母やと一緒だといいんだがなあ。きっと偉くなれるんだけれど……。」
老人はぴたりと歩みをとめた。そして次郎の両手を握って、彼を自分の方に引きよせながら、闇をすかして、その顔を覗きこんだ。
「お前は、まだ乳母やのことが忘れられないのか。」
老人の声はふるえていた。次郎は叱られていると思って、握られた手を、無理に引っこめようとした。
「叱っているんじゃない。乳母やに逢いたけりゃ、このお祖父さんが今に逢わしてやる。だから、きっと偉くなるんじゃぞ。」
次郎はしゃくり上げそうになるのを、じっとこらえてうなずいた。
二人が、正木の家の門口に近づいたころ、北方の空を二つに割って、斜に大きな星が流れた。
「あっ。」
次郎は、声をあげてそれを仰いだが、その光が空に吸いこまれると、彼の眼は、いつの間にか北極星を凝視《ぎょうし》していた。
しかし、彼が「永遠」と「運命」と「愛」とを、はっきり結びつけて考えうるまでには、彼は、まだこれから、いろいろの経験をなめなければならないであろう。
三〇 十五夜
次郎が正木の家に預けられてから、十四五日の間は、ほとんど一日おきぐらいに、お民が訪ねて来た。もっとも、
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