た、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな燐憫《れんびん》の情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、むくむくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないと頑張って、母を手こずらせるのも面白いが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者《えんざいしゃ》が、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。
彼はもう誰も怖くはなかった。父に煙管でなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道の通った、尤もらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。
もうその時には日が暮れかかっていた。小屋は次第に暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放って置かれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。
(父さんはもう帰ったか知らん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このまま何時までも僕を放っとくとすると、――)
次郎は、そう考えて、胸のしん[#「しん」に傍点]に冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結《ぎょうけつ》して、彼をいよいよ頑固にした。
(二日でも三日でも、僕はこうしているのだ。僕はちっとも困りゃしない。)
しかし、それから小半時もたって、あたりが真っ暗になると、流石に彼も辛抱しきれなくなった。やはり家の様子が知りたかった。
彼はとうとう思いきって小屋を出て、そっと茶の間の縁側にしのび寄った。茶の間には、あかあかと燈がともっていた。
「それで恭一にも、俊三にも、よくきいてみたのか。」
父の声である。
「いいえ、べつべつにきいてみたわけではありませんけど、……」
「それがいけない。三人一緒だと、どうしたって次郎の歩が悪
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