にしても、今度ばかりは無事にすみそうな気がしない。
ふと、彼は、今日は父が帰宅する日だということを思い起した。
(そうだ、父さんならきっと何とかしてくれる。)
そこで彼は、父が帰る時間まで、鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》にかくれていることにした。
しかし、杜にかくれてみても、彼の心は落ちつかなかった。不思議に今日は一人でいるのが怖い。村中の者が、今にも自分を取りかこみそうな気がする。喜太郎の父の庄八が、出刃でもぶらさげて来たら、どうしようかと思う。
(やっぱり、うちにかくれている方が安心だ。)
そう思って、彼はあたりに気を配りながら杜をとび出した。
*
その日の夕方、次郎は、俊亮と、お民と、お浜の三人が茶の間で話しこんでいるのを、隣の部屋から立ち聴《ぎ》きしていた。
俊亮――「それで先生はどう言っているんだね。」
お民――「とにかく、庄八の方に、一刻も早くこちらから挨拶をした方がいい、とおっしゃるんです。」
俊亮――「挨拶には、もうお前が行ったんだろう。」
お民――「ええ、でもほんのおわびだけ……」
俊亮――「それでいいじゃないか。」
お民――「でも、向こうに傷を負わしたんですもの、何とか色をつけませんと、庄八も承知しないでしょう。」
俊亮――「庄八が承知しない? 先生がそう言ったかね。」
お民――「ええ。」
俊亮――「じゃ、俺はいよいよ不賛成だ。こちらが本当に悪けりゃ、庄八にだって誰にだって、いくらでもあやまるし、場合によっては、金も出さなきゃなるまいさ。しかし、何といっても、喜太郎の方が年上だからね。」
お浜――「そうですとも、もともと悪いのは、何といっても喜太郎でございますよ。」
お民――「いったい、ほんとうのところはどうなんだい。随分次郎にもきいてみたんだけれど、はっきりしないところがあるんでね。」
お浜――「ええ、……それは、何でも、……お鶴にきくと、喜太郎が坊ちゃんに泥をぶっつけたのが、もとなんだそうでございますよ。」
お民――「だしぬけにかい。」
お浜――「ええ……」
お民――「理由もなしに?」
お浜――「ええ、何でも、校番室で坊ちゃんがお鶴と遊んでおいでのところへ、窓から泥を投げこんだらしゅうございます。」
次郎は、握飯の話が出るかと思って、ひやひやしていたが、とうとう出なかった。自分もそのことを母に言わないでおいてよかった、
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