てむざんにも握飯の表面をまだらにした。
 次郎の眼は異様に光った。彼はやにわに立ちあがって、窓から飛び下りると、うしろから喜太郎の腰のあたりに武者ぶりついた。
 しかし、腕力では、彼は喜太郎の相手ではなかった。次の瞬間には、彼は仰向けに地べたに倒されていた。しかも、彼の胸の上には、喜太郎の大きな膝頭が、丸太のようにのっかっており、両手は、地べたに食い入るように、おさえつけられていた。
 次郎は、足をばたばたさせたり、唾を吐きとばしたりしたが、何のききめもなかった。唾はかえって自分の顔に落ちて来るばかりであった。
 だんだんと息がつまって来る。あせればあせるほど、喜太郎の膝頭が胸をしめつける。次郎は泣き出したくなった。
 しかし、せっぱつまった瞬間に、皮肉な落ちつきを取りもどして、何かの計画を頭のなかから引き出して来るのが、次郎のいつものでん[#「でん」に傍点]である。彼は四五秒ほど、じっと喜太郎の顔を見つめていた。それから、自分の胸の上に乗っかっている膝頭に、そろそろと視線を転じた。膝頭はまるく張り切って、陽に光っていた。自分の口との距離は、わすか一寸ほどである。
 とっさに彼の頭が上に動いた。顔の筋肉がブルドッグのように引きつった。同時に、まだ飯粒のくっついている彼の味噌っ歯が、喜太郎の膝頭の一角にずぶりとめりこんだ。
 喜太郎は、地の底をモーター・サイレンが走りまわるような悲鳴をあげながら、両手で虚空《こくう》を引っかきまわした。
 次郎は夢中だった。彼はただ、口の中が塩《しょ》っぱくなるのを、かすかに感じただけだった。
 彼が自分にかえった時には、彼は、わいわい騒いでいる大勢の子供たちに取りかこまれて突っ立っていた。喜太郎は、地べたにしゃがんで、血だらけの膝頭を両手で押えながら、次郎の方を向いて、犬が鳴くようにわめいていた。
「どうしたんかっ、おい!」
 と、一人の先生が教室の窓から大声で叫んだ。同時に、お浜のいかにも急《せ》きこんだらしい、かん高い声が近づいて来た。
 次郎は、自分のやったことが急に恐ろしくなった。そしてやにわに子供たちの間をくぐりぬけて、いっさんに校門の方に走って行った。
 彼は、しかし、校門を出ると、すぐ迷った。
(うちに帰ろうか。それとも正木に行こうか。)
 何しろ、血を見るような事件を起したのは、彼としても、全くはじめてである。いずれ
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