る文學を渉獵し盡さんには、八年かゝると云ふは、今日の日本の佛學者の常に云ふ所ではあるが、これは、末書の末書まで、調べ上げることを云ふのであつて、單に大日經の學習に二十年もかゝると云ふは、何人も首肯し難き所である、又日本で今日やつて居る樣な學風なら、或は二十年もかゝるかも知れぬが、唐代の學風は、决して、かゝる迂遠な學風でない、然らば、大師入唐の最大動機は何であるかと云ふと、云ふまでもなく、一は唐代一般文明の精華を探ぐり、一は當時最も隆盛を極はめた宗教をば、日本に將來せんとするのである、當時最も隆盛を極はめた宗教とは、何かと云ふと、答は、極めて簡單で、即ち密教であつたのである、大師の大遺告文などを見ると、かゝることは見えて居らぬ、孰れの御文書にも現はれてない、しかし、これは、明白なことで、大師が、たゞ、これを公にせられなかつたのみである、大師の師と云はれた石淵寺の勤操僧正に對しても、入唐の目的は、單に大日經の學習であると云はれたのみで、恐らく密教を我が國に將來せんとは云はれなかつたことゝ見える、これはさもあるべきことで、密教の將來と云ふことは、容易でない、一大事業である、長安には幾多の明師も居つて、其の名も、大師には、入唐以前に於て、判明して居つたであらうが、果して、此等の明師が、評判の通りであるか、或は評判の通りであるとしても、快く、自分に、其の法を傳へて呉れる人々であるか、假令ひ傳へて呉るゝものとしても自分は、果して其の器であるか否やは、大師の心頭に不絶往來した問題であつたことゝ思ふ、故にかゝる問題の解决せられぬ以前に、密教將來の大目的を、他に語らるゝやうな大師ではあるまいと、自分は信ずる次第である、しかしこれに依つて、大師が入唐の目的は、密教將來でなかつたと斷ずるは、迂濶千萬の事と私は思ふ、前にも述べた通り、當時日本と支那とは、交通不便の時代であるが、今日の人々の想像するごとく、日本の人々は、支那の事情に暗かつたものではない支那に流布する思想并に趣味は、短日月の間に、日本に波蕩風響し來たものである、日本のことも、比較的支那留學の人々には、速に傳はつたのである、現に大師の入唐に先づ、一年前、即ち延暦二十二年、入寂せられた行賀などは興福寺の別當であつて、法相の學匠であつたが、此の人は、入唐した人である、其の入唐留學の期間は、七年であつたか、或は、其れ以上であつたか、判然せぬが、東大寺の明一の爲めに、留學久しかつた割合に學殖は淺薄であると叱責せられた所を見ると、在唐の年月は久しかつたものと見える、隨つて、當時、支那に於ける宗教の状態は、詳知して居つたに、相違ない、又近江の梵釋寺の永忠なども、稱徳帝の寶龜年間に入唐し、長安は、西明寺に滯在して、十數年の久しきに亘り、延暦の初に歸朝したのである、大師は必ずしも、此等の人々と面會せられて、唐の事情を聽かれたとは云はないが、苟も、萬里の波濤を凌ぎ、身命を賭して、入唐せられやうとする大師にして、唐の長安の事情は、豫め調査しないで、渡唐せらるゝとは、思はれない、調査せられば、當時唐の天子の信仰せられた宗教は、密教であり、又長安に於ける上流社會の信仰を鍾めた宗教、朝野一般の風尚となつて居つた宗教は、密教であつたことは、入唐以前豫め知悉せられて居たことゝ、私は確信する、然も、これを學習するには、二十年かゝると思はれたのである、自から偉人であつて、而も偉人たることを知らないのは眞の偉人である、故に事に當つて、刻苦する、自から天才であつて、而も、天才たることを知らないのが、眞の天才である、故に學に志して、勉勵する、大師が、日本國に於ける、御自身の使命を自覺せられたのは、入唐以前であつたらうが、眞に御自身が、これに堪ゆる天才なることを意識せられたは、入唐後惠果和尚に遭ふた時である、故に惠果の如き明師に遭ふまでは、遠くは法相の玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]や、近くは梵釋寺の永忠などと同じく、二十年の星霜を長安に送らなければ、御自身の目的を達せられないと云ふ考らしかつた、私は、これを以て、大師の御性格が如何に眞摯で、誠實であつたかを想見する次第であり、又今日でも、昔時でも、凡眼は、常に英雄を知らず、己を以て他を推し、洋行したことのあるものは、洋行せないものを一向輕蔑し、又長く洋行して居つたものは、二三年しか洋行したことのなきものを罵りて、少しも十年位は洋行せねばいかぬ、二年や三年では何もならぬなど云ふと同じく、大師入唐以前に、奈良や京都の學匠どもは、定めて、大師に向ひ、二年や三年では、いけない、往くからには、二十年も往くがよいなどと、云はれたことと想像する、大師も不幸にして、日本では、明師に遭はれず、知己にも會せず、成る程と思はれて、留學二十年と定められたことと思ふ。
大師の入唐は、我が朝では、桓武帝の延暦二十三年で、唐朝の方では、徳宗皇帝の貞元二十年であります、これは何人も知つて居る事で、更めて云ふまでもないが、西暦で申すと、紀元八〇四年でありますから、即ち、九世紀の始めで、二十世紀の今日から、遡りて、數ふると、十一世紀以前の出來事で、當時の世界を見渡すと、亞細亞と歐羅巴との二大陸には、文明の國として見るべきものは、五ある、第一は、支那、第二は、印度、第三は、バクタツトを中心として、絶世の明君「ハルン、アル、ラシツト」の下に咲き出でた回教徒の文明、第四は、囘教徒の建設した、「クラナダ」の都を中心として、西方地中海沿岸の地に光被する西班牙の文明、第五は、「シヤールマンヌ」の武力の下に漸く頭を上げかけた西羅馬の文明、第六は、今の君主但丁堡、昔の「ビサチユーム」を中心として、對岸の小亞細亞一帶の地に光被する東羅馬の文明であるが、中にも、支那の文明は、今日地理學に云ふ支那一國の文明でなく、實は、葱嶺の東、扶桑の西に亘りた東方亞細亞の民族を代表する一大文明であつて、南は、今の南洋諸嶋に至り、北は漠北に連りた土地に生息する民族が、仰で、文明の儀表としたものである、當時の支那の都の長安は、支那人の長安あるばかりでなく、實は、東方亞細亞の民族の首都である、恰も、今日の巴里が、佛蘭西人の首都であると共に、歐州大陸の首都であると同一な趣がある、東は、日本、北は渤海、南は今の印度支那、爪哇、蘇門多羅、西は印度西藏、中央亞細亞、波斯などの民族が、風を望み、化を慕うて、朝宗した所で、萬國の衣冠は、長安に湊つた次第で、長安に起つた風尚は、全支那を支配したのみならず、東方亞細亞一帶の地を支配したのである、又幾多の宗教并に思想が、民族の麕集すると共に、長安に麕集したのである、大師の長安に到着せられて、最初居住せられた所は、西明寺の中であつたことは、大師の文章にも見えてあるが、此の西明寺のあつた坊は、惟ふに、延康坊と云つた所で、其の西南隅にあつた西明寺は、隋の時代に、權威朝野を傾けた楊素の宅の址で、顯慶二年高宗皇帝の時に、皇太子の病が癒えたと云ふので、報謝の爲めに寺を建つることになり、落成の時は、顯慶三年であつたことが、續高徳傳第四、玄奘の傳の下に見えて居る、此寺の建築は、印度の祇園精舍の規模によつたとかで、我朝でも、此の規模に擬して、聖武帝の神龜年間に、唐僧道慈律師が、奈良に建てたのは、即ち大安寺である、これは、前に已に述べたことゝ思ふ、西明寺が、延康坊にあつたとすると、それから、北へ光徳坊、延壽坊と往くと、布政坊と云ふ坊があつた、其處の西南隅に胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふ廟がある、又布政坊に隣りて、西に醴泉坊と云ふがある、其處の西門の南には、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがあつた、次で醴泉坊の北は、金城坊と云ふのであるが、其の金城坊の西には、義寧坊と云ふがある、其の中に、波斯胡寺[#「波斯胡寺」に白丸傍点]と云ふがあつて、大宗皇帝の貞觀十二年、西暦六百三十八年に、大宗が、大秦國胡僧阿羅本の爲に立てたと云ふことになつて居る、即ち大師の入唐以前、百六十有餘年の時から、茲に存在したのである、又義寧坊の北が普寧坊と云ふので、其の西北隅に※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがある、又大師が後に居られた青龍寺と云ふは、長安の都の東部で、新昌坊と云ふ處にあつた寺と思はるゝが、新昌坊の直ぐ北は、靖恭坊と云ふのであつて、茲にも、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠[#「※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠」に白丸傍点]と云ふがあつた、抑も、胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠と云ひ、波斯胡寺と云ひ、又※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠と云ふは、如何なる宗教の寺かと云ふと、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]祠とは、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]教の祠廟と云ふのであつて、※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]教は即ち、「マズデイズム」(Mazdeism)を云ふのである、波斯胡寺とは、少しく漠然として居るが、大秦國胡僧阿羅本の爲めに建立したと云ふより見れば、基督教の一派景教の寺である、景教は、西人の所謂、「ネストリアニズム」(Nestorianism)である、西暦第四世紀の後半に、支那で云ふ大秦即ち今の西里亞《シリア》に生れた「ネストリユース」の創めた基督教の一派で、其の教旨は、今日歐州に行はるゝ基督教に比すると、教祖基督の性質につきて、大に見解を異にして居る、後者は、三位一體説であるが、景教は、そうでない、隨つて基督の母たる摩利亞《マリア》を、神の母とは認めない、基督は、此の教徒の見解では、神の性質を解した人で、神そのものでない、「ロゴス」は基督と云ふ人の身を所依としてゐるまでゝ、基督自體は「ロゴス」でないと云ふは、景教の見解である、然るに此教義は、西暦四百三十一年「エヒフイソス」の宗教會議で、異安心として彈訶せられたものだから、其の教徒は、或は、「オデツサ」に、或は、「シリア」に、或は、波斯に逃れ、遂に、西暦六百三十八年、唐の長安にも來たのである、此の教徒は、太師の入唐當時、なほ長安に居つて、然も盛に其の教義を唱へたことゝ思はるゝ、今日遺つて居る大秦景教流行碑の内容を見ても、景教が西暦六百三十五年から、七百八十一年即ち大師の入唐以前僅に二十有餘年の時に至るまで、如何に傳承せられ、如何なる人々が、長老であつたかが明白である、此の碑を記した景教の僧は、支那では、景淨と云ふたが、本名は「アダム」と云つて、貞元釋教録によると、密教傳燈史上忘るゝことの出來ない般若三藏を扶けて、一度、胡語から、大乘理趣六波羅蜜多經を譯したことがある、此の事は、善く人の知悉する所で、今更ら事珍らしく述ぶるまでもないが、これによると、少くも、景淨と云ふ高僧は、般若三藏の友人であつたことが明白である、又景淨のみならず、其の他の景教の僧侶達とも、交際があつたことも、想見せらるゝ次第であるが、かゝることは、餘計の想像と云へば、夫れまでゞあるが、大師在唐の時は、般若三藏にも師事せられたことであるから、或は、三藏の許で、此等景教の人々とも、邂逅せられたことがないとも云へぬ、景教流行碑は、先般「ゴルドン」夫人とか云はるゝ英國の婦人が、高野山に建てられたとの事であるが、私は未だ一見もせぬから、其の眞僞は知りませぬが、これは、洵に當を得たことで、前にも申した通り、景淨は、般若三藏の友人であり、又密教所依の經典たる理趣六波羅蜜多經が、一時胡語から景淨の手によりて、譯せられたこともある位であるから、般若三藏の高風を欽し、大師の在唐の時代を偲ぶには、好箇の一材料であると私は思ふ、高野山の當路者が「ゴルドン」夫人の乞を容れて、其の美擧を賛成せられたは、如何にも大師の遺弟として、かくあるべきことで、九泉の下、若くは都率の上に於て、般若三藏は喜ばるゝことゝ思ふが、更らに一歩を
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