生の土地の語で書いたものならば、其の語に通したものが、讀めば比較的了解には困難ではなからうが、日本がこれを傳へたは、玄奘の支那から傳へたもので、支那語の學習が、當時已に日本の人々には、一大事業であるに加へて、衣裝は支那語であつても、中身は、印度思想であるから[#「あるから」は底本では「あるら」]高遠な概念を有した哲學上の術語が多い、故に、日本から、支那に出掛けて學ぶにも、一人や二人の力の及ぶ所でない、第一には、孝徳天皇の白雉四年に、元興寺の道照が入唐し、玄奘につきてこれを學んだが、次には、觀音寺の、智通智達が、齊明天皇のときに、入唐して、同じく玄奘につきて、これを受け、又も、文武天皇の大寶三年に、智鳳だとか、智鸞だとかと云ふ連中が、入唐して、智周から學んで、日本に傳へ、又も、元正天皇の靈龜二年に、玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]が入唐して、同じく、智周から受けたとの事であるが、かくの如く、一法相宗の輸入でも、道照から始まつて、玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]に至るまで、我が國の俊才の士が、數度入唐し、時代は六十有餘年からかゝつて居る、其の後とても、屡々留學生を送つて、法相宗の教義を學習さして居るが、これでも、當時、果して完全に、玄奘や慈恩大師の著作が、日本に於て、了解せられたか否やは、私どもの大いに疑ふ所である、もし了解されて居つたと云ふ人があれが[#「あれが」はママ]、何時でも、其の然らざる所以を擧證し得る積りである、宗教にしても、文學にしても、美術にしても、奈良朝の全部平安朝の初期のものは、要するに、支那朝鮮よりの輸入品でなくば、其の摸倣であることは、私の確信する所であり、又世間一般の定説であると信ずるから、特に喋々する必要はなきことゝ思ふ、しかし、其の輸入又は摸倣の迅速であつたことは、世間一般の想像するよりも、一層迅速であつたことは、私の又信じて疑はぬ所であります、玄奘が、印度から歸りて、戒賢論師から法相宗を傳へると、日本から早速道照が出掛けて、其の弟子の窺基、即ち慈恩大師と同宿の上で、教旨を學ぶとか、義淨三藏が印度から歸りて來て、一切有部の律が翻譯せられ、從來支那で闕けてあつた律も、漸く補足せられた爲めと、又其の少々以前で、道宣や懷素等の、諸高僧が、律のことを、喧しく唱導した爲とであるが、支那には、律宗の氣勢が加はつたと思ふと、やがて、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひますが、別に説明をした人がありませぬ、然し、法相宗の本山であつて、かく名稱を改めたは、當時、建立者たる藤原氏の人々の中には、慥に、唐の玄奘三藏が居つた三寺の隨一たる興福寺の名稱を、其の儘に用ひたものと私は確信致します、長安の興福寺には、唐の大宗の御製で、東晋の王羲之が書いたと云ふ、一寸聞くと妙に思ふ、かの大唐三藏聖教の序があつた所で、大宗が太穆皇后の追福の爲に、建立した寺で、其の聖教序は、今もなほ西安府學の文廟の後にある碑林にあるとの事である、尤も唐の興福寺は、最初弘福寺と云ふたが、高宗皇帝の時に、興福寺と改めたものであります、日本の興福寺は、其の改名後の名を採用したことは云ふまでもない、其他、唐僧道慈が建てた大安寺も、當時の長安の西明寺に規したものである、其他唐招提寺なども、唐代の建築に則り、唐より來朝した工匠の手に成つたことは言を待たない、私共が奈良で、古き時代の寺院を見ると、其の中に、一種の感想が、起つて來る、それは、日本人の手になつた事業、又は製作品に於て、見ることを得ないものであつて、外でもないが、堅牢壯大と云ふ感想で、英語で云へば、「ソリダリテイ」の考へである、これが建築の上に表現されて居るやうな氣がする、奈良朝の時代に成り、又は、奈良朝の時代のものに摸した寺院は、其の起原は、唐代にあり、又支那の大陸にあるのであるから、日本の土地に存在するが、其の實、支那の建築であり、且つ支那でも、最も氣宇廣大であつた、唐代の人々の精神が、現はれて居るから、かゝる感想を起させるものと私は思ふ。
要するに奈良朝の全期、又は、平安朝の初期は、唐服を着け、唐書を讀み、唐の詩文を屬し、唐の語を操るは、上流社會の誇りとした所であるから、苟も[#「苟も」は底本では「荀も」]、功名利達の志あるものは、これに務むるは、自然の情である、又、唐の文物が交通不便の當時であるにも拘はらず、比較的短き歳月を隔てゝ、日本に傳來し、波蕩風響して來るから、新を趁ひ、奇に馳せるは、自然の勢であり、隨つて、他の知らざる所を知り、他の有せざるものを有して、人に誇ることはせないまでも、自から恃みとするは、人の至情であつたらうと思はるゝ、又心を功名利達に絶ちて、身を宗教に委ねた人々でも、新奇の經が渡來するとか、未見の論が手に入ると、難解の點が多きに苦んだであらう、又宏才達識の人々でも、如何にして、新學の氣運に乘じ、新思想の潮流に掉して、國家民衆に貢献すべきかに迷ふたことゝ想像する、又一波一波と寄せ來る唐代の文明が、如何にせば我が國體と調和すべきか苦心したことゝ思ふ、聖武帝が東大寺の毘盧舍那佛を建立せられた當時、行基などの頭には、此の苦心が、ほの見えて居る、平安朝の初期に至ると、奈良朝の中葉に比すれば、大分支那の文物が理解せられたやうで、思想風尚も大分了解せられた、嵯峨帝が、小野篁に對し、新に渡來した白居易の詩にある、登樓空望往來船といふを、試に、登樓遙望往來船と改められて、これに意見を下問せられたとき、篁は、白居易の書を未だ見ないに、聖作誠によろしいが、遙[#「遙」に白丸傍点]の字を空[#「空」に白丸傍点]と云ふ字にせられたらなほよろしからんと存ずる旨申上げたいたところ、嵯峨帝は御叡感あつたと云ふ話がある、なる程、遙[#「遙」に白丸傍点]の字より、空[#「空」に白丸傍点]の字の方が、此の塲合よろしい、これを、一瑣談と見れば、それまでゝあるが、私はこれを以て、當時の上流社會は、已に深く、支那文學の趣味を有して居り、又其の精髓まで味ひ得たと云ふことの證據であると思ふ、小野篁は元來學問嫌の人で、若いときは、遊獵騎射に耽けて、青年時代を徒消した人である、年がかなりにゆきてから、嵯峨帝の御感化で、學問を始めた人であるが、此の人にして斯の如しだ、當時の上流社會が、漸やく、支那文學を修めて、其の精髓を得たと云ふことが推測せらる、今日の學者は、歐洲の文學をもて囃すが、英文學や、獨逸文學で、其の精髓に達し得たことは、果して、小野篁の如きもの幾人あるか、ものゝ十人とあるか否やは、余輩の疑ふ所である。
宗祖大師の入唐は、嵯峨帝の時代より二代前の桓武帝の延暦二十三年でありますが、桓武帝の御宇は、二十四年であつて、次に即位せられた平城帝は、在位僅に四年であるから、大師の入唐以前の日本の時代と、其の後とは、大差なきことゝ思ふ、大師が入唐以前は、御遺告書にも見ゆる通り、御生年十五の時に、已に今日で申す普通教育を終り、入京の上大學に入りて、經史を修め、佛經を好まれたとの事であるが、中々教育の順序としては、整頓した制度である、御生年二十の時に、剃髮せられて、出家せられたが、其の前後の時には、御自身の告白がある、今日の語で云へば、青年時代にある、煩悶の時代である、殊に天才を有する青年の煩悶時代であるが、匹夫匹婦の煩悶は、飮食の爲めであり、凡庸の人の煩悶は、色欲又は功利の爲めであるが、大師の煩悶は、如何にせば、三乘五乘十二部經が、完全に理解出來るか、會得出來るか、佛法の要諦は何であるかと云ふにある、青年時代に、かゝる眞摯にして、高尚な煩悶は、疑問としても、實に、凡庸人の夢想し得ざることで、今の學生ならば、如何にして、學校を出たのち「パン」を得やうか、はた如何なる妻を迎へやうかと煩悶するのであらうが、大師は、左樣でない、しかし、其の煩悶は、餘程熱烈であつたと見えて、名山大川を跋渉し、毫も艱險を憚らない、或は高嶽の上に孤棲して、修行し、或は怒濤澎湃として、孤峭削れるが如き巖頭に坐して、靜かに、妙理を思索して居られたことがある、殊に私が讀んで、感心致す所は、大和高市郡久米道塲の東塔の下で、大日經を尋ね當てられたときの御告白である、普覽衆情有滯、無所彈問、と云はれた、又更作發心、以去延暦二十三年五月十二日、入唐、爲初學習と云はれて居る、成程大日經と云ふ御經は、今日でこそ、研究もされて居り、註釋もあるから、或は、容易に了解さるゝことゝ思ふが、當時では何人も、讀んで、了解することが出來なかつたに相違がない、一行禪師と善無畏三藏とがこれを譯した時は、西暦七百二十四年であるから、大師が、入唐の年代、即ち西暦八百〇四年迄には、約八十年の間がある、元正帝の養老年間に善無畏三藏は、日本に來られたと云ふ傳説があるが、是れは少しく疑はしいことゝ思ふが、當時のことであるから何人かが、其の手に成つた大日經を、日本に持ち來たことゝ思はれる、しかし、三論や法相など在來の宗派の所依の經典とは、違つて、如何にも、梵語が澤山あり、印度の、風俗などの事も、會得せねば、了解し難き所もある、故に渡來はしても、又一應讀むものがあつても、徹底して、了解することが出來ぬから、自然興味が生ぜず、放任すると云ふ工合であつたが、流石に、大師である、一讀して、難解の書であると同時に、日本では、誰も就きて學ぶ人もない、しかし、是れこそ、吾が年來求めて居つた經典である、これが意義闡明したいものであるとと云ふが、大師入唐の動機である、やうに窺はるゝが、しかし、大師入唐の動機は、これのみではあるまい、なるほど、大日經は大師にとりて貴重の經典であつて、是非唐に赴きて、徹底するまでに學習したいと思はれたに相違はなからうが、入唐せられんとする當時には、二十年間支那に留學する御豫定であつた、大日經七卷の學習に、二十年の歳月が要するとは、我々とても思はない、唯識に關する文學を渉獵せんには、三年はかゝり、倶舍に關す
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