、後者は、三位一體説であるが、景教は、そうでない、隨つて基督の母たる摩利亞《マリア》を、神の母とは認めない、基督は、此の教徒の見解では、神の性質を解した人で、神そのものでない、「ロゴス」は基督と云ふ人の身を所依としてゐるまでゝ、基督自體は「ロゴス」でないと云ふは、景教の見解である、然るに此教義は、西暦四百三十一年「エヒフイソス」の宗教會議で、異安心として彈訶せられたものだから、其の教徒は、或は、「オデツサ」に、或は、「シリア」に、或は、波斯に逃れ、遂に、西暦六百三十八年、唐の長安にも來たのである、此の教徒は、太師の入唐當時、なほ長安に居つて、然も盛に其の教義を唱へたことゝ思はるゝ、今日遺つて居る大秦景教流行碑の内容を見ても、景教が西暦六百三十五年から、七百八十一年即ち大師の入唐以前僅に二十有餘年の時に至るまで、如何に傳承せられ、如何なる人々が、長老であつたかが明白である、此の碑を記した景教の僧は、支那では、景淨と云ふたが、本名は「アダム」と云つて、貞元釋教録によると、密教傳燈史上忘るゝことの出來ない般若三藏を扶けて、一度、胡語から、大乘理趣六波羅蜜多經を譯したことがある、此の事は、善く人の知悉する所で、今更ら事珍らしく述ぶるまでもないが、これによると、少くも、景淨と云ふ高僧は、般若三藏の友人であつたことが明白である、又景淨のみならず、其の他の景教の僧侶達とも、交際があつたことも、想見せらるゝ次第であるが、かゝることは、餘計の想像と云へば、夫れまでゞあるが、大師在唐の時は、般若三藏にも師事せられたことであるから、或は、三藏の許で、此等景教の人々とも、邂逅せられたことがないとも云へぬ、景教流行碑は、先般「ゴルドン」夫人とか云はるゝ英國の婦人が、高野山に建てられたとの事であるが、私は未だ一見もせぬから、其の眞僞は知りませぬが、これは、洵に當を得たことで、前にも申した通り、景淨は、般若三藏の友人であり、又密教所依の經典たる理趣六波羅蜜多經が、一時胡語から景淨の手によりて、譯せられたこともある位であるから、般若三藏の高風を欽し、大師の在唐の時代を偲ぶには、好箇の一材料であると私は思ふ、高野山の當路者が「ゴルドン」夫人の乞を容れて、其の美擧を賛成せられたは、如何にも大師の遺弟として、かくあるべきことで、九泉の下、若くは都率の上に於て、般若三藏は喜ばるゝことゝ思ふが、更らに一歩を進めて、大師の遊學せられた長安の事情を研究せられんことを、私は高野山のみならず、眞言宗全體の青年諸子に御願ひ申したい。
しかし、茲に諸君に注意を願ひますことがある、外でもないが、般若三藏が、景淨と共に、胡語[#「胡語」に白丸傍点]から、理趣經を譯したと云ふことは、何人も知悉する所であるが、其の所謂胡語[#「胡語」に白丸傍点]とは、如何なる國語であるかゞ、一問題である、當時般若三藏は、梵語は出來るも、支那語は充分でなく、已むを得ず、景淨の手を煩はして、理趣經の胡譯[#「胡譯」に白丸傍点]から、支那語に譯して貰ふたのであるが、其の所謂胡語[#「胡語」に白丸傍点]とは决して、胡越一家など云ふときの南越に對する北胡ではない、胡馬嘶北風など云ふときの北胡ではない、即ち匈奴でもなければ、突厥でもない、當時支那の文明と比較して、遜色ない文明を有して居つた、波斯語系の國民の語であつて、今日から云ふと、「サマルカンド」一帶の地方の語である、即ち、「ゾグデイアナ」と云ふ地方の語で、其の國語は、「ソグド」(Sogd)と云ふたのである、由來此の地方は、印度、支那、並に波斯以西の諸國との交通の廣衢に中りて、佛教なども、夙に此の地方に流布したと見え、漢魏の時代には、此の地方から、支那へ來た高祖が少くない、康僧鎧だの、康孟詳だの、康巨だの、康僧會だのと、康の字を冠した連中は、此の地方の出身で、大法を支那に傳へん爲め、流沙葱嶺の險を凌ぎて、支那に來たのである、此等の高僧の譯した、經を見ると、中には必ずしも、梵語から譯したものとのみ見るべからざるものがある、よく/\、[#「、」は底本では「。」]調べたら、或は、其の國語から重譯したものと思わるゝものもあるであらう、景淨は、其の本名「アダム」と云つたことが明白であつて見ると、波斯又は其の傍近の國の出身たることは、明白であるが、其の所謂胡語と云つたは、「ソグド」の語であつたとすれば、當時大乘理趣六波羅蜜多經は、梵語から、「ソグド」に譯せられたか、又はこれに類する傍近の國語に譯せられたことが明白で、基督教の一派である景教の僧ではあつたが、景淨は、已にこれを知つて居つたのである、して見れば、當時密教流布の地域は、獨り印度のみでなく、西藏のみでなく、支那のみでなく、波斯語系の民族の間にも普及して居たことは、推察出來る次第である、若し般若三藏が、後に梵語から更ら
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