である大師の所謂解脱道住の云々は、即ち、此の三語が、前の「クマーラカ」にかゝつてゐることを云ふたのである、解脱の途に住する、童子よと云ふ義に解すればよい。
「スマラ」「スマラ」を、憶念憶念と大師が解釋せられたは、「憶念せよ」「憶念せよ」の命令法に用ひたことを云つたのである、「プラィヂュナーム」は先所立所願と解釋せられたのは、又正しい、此の語は「誓約を」と云ふ義である、だから、全體の意味は「ヘー」「ヘー」已に解脱の途に安住する童子よ、さきに誓つた約束を忘れずに憶念せよと云ふにあるので、大師は、醯々童子住解脱道者、憶念本所立願とあるは、一點の非難の打ちやうのない解釋である、しかし、吾輩がかく云ふは、普通の梵語學の見地から云ふので、大師は、已にこれを指摘して、此眞言の淺略であると云うて居る、又、一應何人にも明白な義であるから、顯義だと云はれて居る、かゝることは、大師は、已に十分に承知せられて、其の上に更らに、吾々には了解の出來ぬが、確に古代印度の密教の行者から傳へたと見るべき密教的解釋を加へて居る、倶摩羅迦(〔Kuma_raka〕)の語を分析して倶(Ku)は摧破之義、摩羅[#「摩羅」は底本では「魔羅」](〔ma_ra〕)は是四魔五眷屬、此眞言以魔字爲體、即是大空之義、證此大空摧壞一切魔也とせられたは、是れは、密教的解釋で、即ち、眞言宗に獨得な説明法である、世人は單にこの解釋と違つて居るのを見てかれこれ云ふのであるが、大師は普通の解釋は、充分承知して、更らに、密教の上から見た解釋を加へて居ることを忘れてはならぬ、又十住心論の卷の四に、大日經の聲聞の眞言を引用してあるが、
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〔Hetu−pratyaya−vigata Karma−nirja_ta hu_m〕[#最後のmは上ドット付き] とある、是れは、常情から解すれば「因縁より離れ、業より免れたるものよ」と解釋すべきものと思ふが、大師は、これに密教的解釋を下して
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初醯字(He)有訶聲(h)是行是喜、即聲聞行、有伊聲(e)即聲聞三昧也、次覩字 tu' 有多聲(t)即聲聞所入如々也、有※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]聲(u)三昧也、次有鉢字(pa)聲聞所見第一義諦、帶羅字(ra)即小乘所離六塵、帝也(tya)乘如之義也、是聲聞所乘之乘、※[#「田+比」、第3水準1−
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