は上ドット付き])
水曜、辰星、胡名咥(〔Ti_r〕《テイル》)波斯名掣森勿、天竺名部陀(Budha《ブトハ》)
木曜、歳星、胡名鶻勿斯(Wur−mazt《ウール、マズト》)波斯名本森勿、天竺名勿哩訶娑跋底(Brihaspati《ブリハスパテイ》[#rは下ドット付き])
金曜、大白、胡名那歇(〔Na_khid〕《ナーヒド》)波斯名斯森勿、天竺名戍羯羅(〔C,ukla〕《シユクラ》)
土曜、鎭星、胡名枳院(院)(〔Kewa_n〕《ケーワーン》)波斯名翕森勿、天竺名※[#「貝+余」、第4水準2−89−12]乃以室折※[#「口+羅」、第3水準1−15−31](〔C,ana_ic,−cara〕《シヤナイシユチヤラ》)
此の中、波斯の名稱は、皆森勿と云ふ音で終つてあるが、森勿とは Sambat《サムバツト》 の音譯らしく、意味は、支那の曜と云ふ義に相當する、其の上にある翕は Haft《ハフト》 で梵語の Sapta《サプタ》 に當り、七と云ふ義で、數は Su 本は Pan(3) 掣は 〔C,u〕 勢は Seh 婁禍は厚音音が不明であるが、ともかく 〔Dva_〕 の訛音らしく、曜は 〔Yu_〕 又は Yak らしく皆梵語の Sas[#sは下ドット付き], 〔Pan~ca〕, Catur, Tri, Dva, Cka 又は Sa と語源を同じくして、六五四三二一の義を有することは疑ない、又以て、波斯の文物が如何に當時の支那に影響したかが明白である。
唐代の支那人は、氣宇濶達で、自國のみは、宇内の中心で、自余の國は藩屏であり、自國の皇帝は、百王の主として、天に代り、宇内を統治して居るものと思うて居つたらしい、だから、自國の文化を慕うて來た外人は、善く待遇したものであつて、我が國では、安部仲麿などは大にもてた一人である、官仕して秘書監となつた許りでなく、李白だの其の他の連中と徴逐して、交をした、其の他の留學した連中も、公私共に世話になつたことは、掩ふべからざる事實である、唐代の支那ではないが、少し以前、隋の煬帝の時代に、日本から遣唐大使をやつて、日出の天子が、日沒の天子に問ふが、日沒の天子は恙ないかと云ふ主意の國書を送つたところ、煬帝は、東夷何ぞ、無禮なると怒つた話がある、日本の方から云へば、怒つたは奇怪千萬と云はなければならぬが、支那の方から云へば、煬帝の怒つたにも、聊か理由がある
前へ
次へ
全48ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング