暦が、採用せらるゝことになつて、麟徳二年即ち西暦六百六十五年から實行した、麟徳暦は、即ち是れである、しかし當時、印度の暦法家が、三族も、支那の朝廷に仕へて居つて、此等は中々承知しない、其の三族とは、瞿曇《ガーウタマ》族|迦葉《カーシヤパ》族に矩摩羅《クマーラ》族を加へたものであるが、其の中、瞿曇族の一人が、武周の時代に、新暦を上つて、採用せられたが、長くつゞかず、開元六年、西暦七百十八年に、瞿摩悉達《カーウタマシツドハルトハ》は、殆んど純粹の印度暦の翻譯とも云ふべき九執暦を獻した、九執とは、九惑星と云ふ義で、惑星は、梵語で Graha《グラハ》 と云つて、惑星と云ふ義の外に、執ふと云ふ義があるから、かく九執と譯したのである、五執即ち九惑星とは、五行の木火土金水の外に日月を加へて、七つとし、又地球を動かぬとせば日月の道が交叉する點が二つある、英語は Nodes と云ふが、梵語では、羅※[#「目+侯」、第3水準1−88−88]《ラーフ》と計都《ケーツ》と云ふ、これを二惑星と見て、合せて九執と云つたものである、今も印度の暦は、此の九執暦である。
然る處、九執暦も、不完全であつたと見えて、中々採用せられない、九執暦が出來た翌年即ち、開元七年西暦七百十九年に、吐火羅の葉護《ヤブフ》可※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]が、暦數に明に大慕闍を獻じたのであるから、甚だ其の當を得たものである、いづれ、吐火羅國の副王が、長安に於ける暦法の大論爭を傳聞して、此の擧に出でたものと思ふ、是に於て、支那の暦法家は從來の分と、印度の分と、波斯の分と、三陣に分れて對峙することになつた、しかし、流石は、唐代の支那である、かゝる際に、暦數の一大天才が、支那人の中から現はれた、其の天才は、何人であるか、外でない、密教の高僧の一人一行禪師其の人である、開元二十一年から、二十七年に亘つて、暦法の改訂に從事し、不幸にして、中道蘭折したが、其の法に從うて、開元二十九年に出來た暦は、即ち大衍暦である、當時嫉妬の餘り、或は一行が自分等の暦法を剽竊したなど云つた連中もあつたが、遂に一行禪師の勝利となつて採用せられ、公布することになつた、恰も、日本から、十年後に吉備眞備などが、出掛けたが、當時果して、持ち歸たか否やは知らぬが、それから十餘年にして、淳仁帝の八年、稱徳帝の始から、九十四年間、大衍暦を採用する
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