の後、年が段々たけて、種々の學問や、種々の經驗などをしましたが、幼少の頃に、讀んだ宗祖大師の傳記は、時につれ、折に觸れて、私の心を動かし、感ぜしめたことが、尠くない、これと同時に、其の傳記に對する自分の見解が、變化して來て、最初の程は、超人間的であつたが、漸次人間的となつて來り文字通り解釋して來たものが、譬喩的に解釋する樣になり、幼少の頃は、彩霞※[#「丹+彡」、第3水準1−84−29]雲の上に光明赫奕として居らるゝ大師の姿を望んで居たが、年が長ずると共に、大師の姿は、自分の身に接近せらるゝ樣に感じ、自分の師傅として、又自分の伴侶として、眉睫の間に、大師を見る樣な心地となつた次第で、以前は、「大師だから、かくかくである、自分では、とても」と思つたのが、後には、「大師がかく/\であるから、自分も」と云ふ樣になつて來た、隨つて、自分の所謂大師の面目なり、又御姿の輪廓なりが、明白になつて來たつもりである、殊に八年前、文部省の留學生となつて、佛國巴里に赴き、前後二年滯在して居つたときは、殊に、此の感が深かつた、「プラース、ド、ラ、コンコード」の廣塲から「ジヤンゼリゼー」の廣衢が、「ナポレオン」の建てた凱旋門を貫きて、「ブーローンヌ」の林につらなつてあるが、そこを午後三時から、夜にかけて輕車肥馬の來往が、織るがやうで、夜に入ると、車につけた燈火が、旁午入り亂れて、流星の亂れ飛ぶかと怪まるゝさまであつて、東海の一遊士たる自分は、此の光景を見るたび毎に、大師の長安に居られた時は、長安の大道は、坦として砥のごとく、佳人才子が、銀鞍白馬春風を渡つて、慈恩寺の塔の邊に行樂したさまは、かゝるものであつたらうと感じだ、又かの國の先輩や、同窓に親切に世話になつたときなどは、恐多い話ではあるが、宗祖大師が在唐の當時、青龍寺惠果和尚や、西明寺の志明談勝法師などに厚遇せられたことなどは、屡々心の中に浮び出た次第で、要するに、自分が今日に至るまで、理想として仰ぎ、伴侶として親み、順境の時にも、逆境に處した時にも、心裡に、慰藉を與へ、光明を放つて呉れた古今東西の偉人は、决して、鮮くないが、幼少の頃から、今に至るまで、忘れられないのは、歴史としては弘法大師の傳記で、稗史小説ではあるが、演義三國史[#「三國史」はママ]に現はれた關羽の性格である、殊に大師の傳記が、自分の年の長ずると共に、閲歴見聞の加はると
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