の通典には、此の事を開元二十年七月勅として、末摩尼法本是邪見、妄稱佛教、誑惑黎元、宜嚴加禁斷、以其西胡等既是郷法、當身自行、不須科罪者とある、末摩尼とは 〔Ma_r〕《マール》−〔ma_ni〕《マーニ》 の音譯で、摩尼主と云ふ義である、當時佛教の教理に附會して盛んに支那人を化度したものだから、玄宗皇帝は、詔を下して、波斯人自身は邪法であらうが、正法であらうが、兎もかく、故國の教法であるから、信仰するも、差支えないが、支那人は、これを信じてはいけぬ、信ずれば、刑罰を加へるぞと云つたのである、察する所、かゝる詔勅を發せらるゝに至つては、玄宗皇帝の側に居つた佛教の高僧か道教の道士等の建策によると思ふが、かゝる詔勅を發して、政治上の勢力により、宗教の傳播を壓抑せんとしたを見ても、當時摩尼教は、佛道二教の一敵國であつた事が判然する、併しかく詔勅があつたにも拘らず、宗教の勞力は到底政治の力で動かすことの出來ぬもので、日々に増進したと見えて、恰も大師歸朝の年から數へて三十七年目に當る武宗皇后の會昌三年には、末尼教の迫害が行はれた、勅天下、末尼寺並令廢罷、京師女末尼七十人皆死、在回※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]者、流之諸道、死者大半と、佛祖統記に出で居る、其の教徒の熱心に教を奉じ、壯烈に教に殉じたことは、これでも明白である、京師にある女末尼七十人は、皆死んだとある、徳川時代の初期に、基督教迫害のあつた當時、九州邊の日本人で、教に殉じたものも、中々あつたが、これで見ると、宗教には、國境、種族の別はないもので、善い宗教であり、善い人がこれを護持して流布さすと、如何なる國に於ても、如何なる種族のものゝ中でも、信者を得ることは出來る、政治家などで、善良な宗教の力を、政治の力で左右しやうとするは、蟷螂の龍車に向ふごときものだ、これで見るも、大師の在唐當時の長安には、末尼教なく、三十七年の後にかく熱烈なる末尼教が、長安に出來たとは思はれない、必ずや、其の以前から、長安に根據をすえて、熱心に支那人に對し、布教したものと、私は斷言して、憚らない次第である。
大師は、在唐の時日は、僅に滿二年で、隨分多忙であつたと想像せらるゝが、長安の市中を逍遙せられたとき、又般若三藏の許に通はれたとき、此等胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]の祠廟の前を通られたと想像するが、大師の目には、何と映
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