進めて、大師の遊學せられた長安の事情を研究せられんことを、私は高野山のみならず、眞言宗全體の青年諸子に御願ひ申したい。
しかし、茲に諸君に注意を願ひますことがある、外でもないが、般若三藏が、景淨と共に、胡語[#「胡語」に白丸傍点]から、理趣經を譯したと云ふことは、何人も知悉する所であるが、其の所謂胡語[#「胡語」に白丸傍点]とは、如何なる國語であるかゞ、一問題である、當時般若三藏は、梵語は出來るも、支那語は充分でなく、已むを得ず、景淨の手を煩はして、理趣經の胡譯[#「胡譯」に白丸傍点]から、支那語に譯して貰ふたのであるが、其の所謂胡語[#「胡語」に白丸傍点]とは决して、胡越一家など云ふときの南越に對する北胡ではない、胡馬嘶北風など云ふときの北胡ではない、即ち匈奴でもなければ、突厥でもない、當時支那の文明と比較して、遜色ない文明を有して居つた、波斯語系の國民の語であつて、今日から云ふと、「サマルカンド」一帶の地方の語である、即ち、「ゾグデイアナ」と云ふ地方の語で、其の國語は、「ソグド」(Sogd)と云ふたのである、由來此の地方は、印度、支那、並に波斯以西の諸國との交通の廣衢に中りて、佛教なども、夙に此の地方に流布したと見え、漢魏の時代には、此の地方から、支那へ來た高祖が少くない、康僧鎧だの、康孟詳だの、康巨だの、康僧會だのと、康の字を冠した連中は、此の地方の出身で、大法を支那に傳へん爲め、流沙葱嶺の險を凌ぎて、支那に來たのである、此等の高僧の譯した、經を見ると、中には必ずしも、梵語から譯したものとのみ見るべからざるものがある、よく/\、[#「、」は底本では「。」]調べたら、或は、其の國語から重譯したものと思わるゝものもあるであらう、景淨は、其の本名「アダム」と云つたことが明白であつて見ると、波斯又は其の傍近の國の出身たることは、明白であるが、其の所謂胡語と云つたは、「ソグド」の語であつたとすれば、當時大乘理趣六波羅蜜多經は、梵語から、「ソグド」に譯せられたか、又はこれに類する傍近の國語に譯せられたことが明白で、基督教の一派である景教の僧ではあつたが、景淨は、已にこれを知つて居つたのである、して見れば、當時密教流布の地域は、獨り印度のみでなく、西藏のみでなく、支那のみでなく、波斯語系の民族の間にも普及して居たことは、推察出來る次第である、若し般若三藏が、後に梵語から更ら
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