の名稱を、其の儘に用ひたものと私は確信致します、長安の興福寺には、唐の大宗の御製で、東晋の王羲之が書いたと云ふ、一寸聞くと妙に思ふ、かの大唐三藏聖教の序があつた所で、大宗が太穆皇后の追福の爲に、建立した寺で、其の聖教序は、今もなほ西安府學の文廟の後にある碑林にあるとの事である、尤も唐の興福寺は、最初弘福寺と云ふたが、高宗皇帝の時に、興福寺と改めたものであります、日本の興福寺は、其の改名後の名を採用したことは云ふまでもない、其他、唐僧道慈が建てた大安寺も、當時の長安の西明寺に規したものである、其他唐招提寺なども、唐代の建築に則り、唐より來朝した工匠の手に成つたことは言を待たない、私共が奈良で、古き時代の寺院を見ると、其の中に、一種の感想が、起つて來る、それは、日本人の手になつた事業、又は製作品に於て、見ることを得ないものであつて、外でもないが、堅牢壯大と云ふ感想で、英語で云へば、「ソリダリテイ」の考へである、これが建築の上に表現されて居るやうな氣がする、奈良朝の時代に成り、又は、奈良朝の時代のものに摸した寺院は、其の起原は、唐代にあり、又支那の大陸にあるのであるから、日本の土地に存在するが、其の實、支那の建築であり、且つ支那でも、最も氣宇廣大であつた、唐代の人々の精神が、現はれて居るから、かゝる感想を起させるものと私は思ふ。
要するに奈良朝の全期、又は、平安朝の初期は、唐服を着け、唐書を讀み、唐の詩文を屬し、唐の語を操るは、上流社會の誇りとした所であるから、苟も[#「苟も」は底本では「荀も」]、功名利達の志あるものは、これに務むるは、自然の情である、又、唐の文物が交通不便の當時であるにも拘はらず、比較的短き歳月を隔てゝ、日本に傳來し、波蕩風響して來るから、新を趁ひ、奇に馳せるは、自然の勢であり、隨つて、他の知らざる所を知り、他の有せざるものを有して、人に誇ることはせないまでも、自から恃みとするは、人の至情であつたらうと思はるゝ、又心を功名利達に絶ちて、身を宗教に委ねた人々でも、新奇の經が渡來するとか、未見の論が手に入ると、難解の點が多きに苦んだであらう、又宏才達識の人々でも、如何にして、新學の氣運に乘じ、新思想の潮流に掉して、國家民衆に貢献すべきかに迷ふたことゝ想像する、又一波一波と寄せ來る唐代の文明が、如何にせば我が國體と調和すべきか苦心したことゝ思ふ、聖武帝が東大
前へ
次へ
全48ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング