、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道※[#「王+睿」、第3水準1−88−34]律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひますが、別に説明をした人がありませぬ、然し、法相宗の本山であつて、かく名稱を改めたは、當時、建立者たる藤原氏の人々の中には、慥に、唐の玄奘三藏が居つた三寺の隨一たる興福寺
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