するに今日の所謂法律家(ヂユリスト)が書いたのではないかを疑はれる、今、此等の語を古代印度の法典で今日にも傳はつてあるものゝ中に探つて見たが一向に見當らない、しかし内容に於ては類似の點がないでもない、古代印度の法典と云へば、日本の法學者間に一番よく知られて、しば/\引用せらるゝのは「マヌ」の法典である、しかし「マヌ」の法典は、各種の法典を集めて大成したもので決して一番舊い法典でないことだけは斷つて置く、「マヌ」の法典で妻と云ふものは左に掲ぐる樣式によつて、女が男と一所になつたときに出來るものである、
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一、梵天《ブラーフマ》式結婚法、この式では年頃の女子をもつて居る父親が婿たる人に水を灌いで己が女を與ふるのである、
二、天神《ダイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》式結婚法、この式に依ると、祭祀の際、女子に瓔珞をつけて、着かざらして祭司に與ふるのである、
三、古仙《アールシヤ》式結婚法、女子の父は婿となるべき人より、一對の牛を受けてこれに女を與ふることになつて居る、
四、健達婆《ガーンドハル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]》式結婚法、年頃の男女相愛して各自の意樂から結婚をするのである、
五、羅刹《ラークシヤサ》式結婚法、又は刹帝利《クシヤートラ》式結婚法、これは即ち掠奪婚である、
六、阿修羅《アーシユラ》式結婚法、これは賣買婚である
七、生主《プラヂヤーパテイヤ》式結婚法、女子の父が、婿の方よりの申込を受け、汝等二人共に法を行ぜよと云つて、婿に禮して女子を與ふる式である、
八、毘舍遮《パーイシヤーチヤ》式結婚法、これは、年頃の女子が睡眠中か藥酒に醉ふて居るか、狂亂に陷つて居るときを伺ふて、これを誘拐し、強ゐて、結婚することを云つたのである、
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以上は古代印度の立法者が正當又は已むを得ぬとして、認めた結婚の樣式である、しかし印度は前にも云つたごとく古國であると同時に大國である、文野雜糅して、一律には論じ難い國である、古代の靈賢が認めたものゝ外に結婚の樣式が種々ある、たとへば一婦多夫の陋習は昔もあつたし、今も邊陬の地には存在して居る、叉陋習ではないが、古代の印度では武士即ち刹帝利族の女子に限り、兩親の許可を得て年頃の男子を招き武藝を校べ合はせた上で一番勝つた男子に花束をなげ、擇んで己の夫とすることが出來る、ス※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ヤム、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ラ(自選の式)と云ふがこれである、悉達太子が耶輸陀羅姫を娶られたときは即ち此の式によつたものである、
今、此古代印度の聖人即ち立法者が正當と認め又正當ではないが事實上已むを得ぬとして認めた結婚法と佛教の戒律の上に現はれた結婚法とを比較して見ると、十誦律に所謂索得と云ふは、正に「マヌ」の法典に見えた阿修羅式結婚法で即ち賣買婚である、次に水得と云ふのは梵天式結婚法で、第三に破得と云ふは、正に羅刹式結婚法即ち掠奪婚に相當するやうであり、第四の自來得又は有部律の自樂婦と云ふのは「マヌ」の法典に所謂健達婆式結婚法に相當するやうであるが其の以外の結婚法は、いづれも「マヌ」の法典のみならず古代印度の法典には見えぬ、衣食婦とか、共活婦即ち夫婦共稼ぎの必要から出來た妻であるとか、須臾婦即ち一時の共同生活に基く妻とか云ふ樣な名稱を見るに戒律の注疏の出來た時代は最早、「マヌ」の法典や「ヤヂユナ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキア」の法典の編纂せられた印度とは大に社會の事情を異にして居ることが判然する、社會が變遷すれば宗教や法律も變つて來る、自分は、かつて印度の中世に出來た戲曲を讀んで、年頃の男女の戀愛を應酬する際、佛教の尼僧が、戀文使となつて居ることを見て、佛教戒律制定當時の印度に想到し、印度の世相の變遷に驚いて、佛教の尼僧をしてかくあさましきさまに立到らしめたのは果して尼僧のみの罪であるか、中世印度の社會の罪であるかどうかを自ら竊に問ふたことがあつた、しかし、今日になつて考へて見るとかゝることを問ふた自分の愚を笑はずには居られない。(七月二十九日稿)
底本:「榊亮三郎論集」国書刊行会
1980(昭和55)年8月1日初版発行
初出:「光壽 第二號」
1921(大正10)年
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2008年3月14日作成
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