しく今日の地理に照らして讀まんことを御勸め致します。神經の弱き人には、讀むだに身毛は竪立し、手に汗するやうな感が致すことと推察致します。
將軍米准那の舟師が、印度を出發して支那に向ふ際には國王の使節でもあり、金剛智が乘つて居らるゝことでもあり、定めて盛大なる祈祷祝福の儀式は、印度の古代宗教の規定通り營辨せられたことと思はれます。吉祥成就の祈誓のため、出發の日取時刻などを定むるに喧しきことであつたと想像せられますが、果して、此の艦隊が闍婆島即ち今のスマトラ島に到着したのちは、三藏は、己の後繼者で宗祖大師の師の師であつた不空金剛三藏と云ふ法器を得られ、これと共に西域人の所謂支那即ち廣州に來られ、それから西域人が所謂摩訶支那即ち長安に入られた次第でありますことは諸君も御存知のことでありますが、茲に一つの問題になりますることは、將軍米准那の名の讀方であります。將軍と云ふ二字は義譯で、何か米准那の帶びて居た官職又は業務の飜譯であることは明白でありますが、問題となるのは米准那の三字であります。マイヂユンナと讀んでよいか、ベイヂユンナと讀んでよいか、また久米の仙人など云ふ場合の「米」の字は「メ」と申しますから、メヂユンナと申して宜しきや、一向昔から定まりませぬ。また音譯には相違ありませぬが、如何なる國の語を支那で音譯したものかは、更に判明致しませぬ。私は今より三十餘年前、眞言宗の碩學で學徳共に高き長谷寶秀師の苦心になつた弘法大師全集を讀みまして、金剛智三藏の入唐の御事歴に附帶して、此の米准那の原音を内外學者の著述または論説を見聞致しましたが、不幸にして何等の意見を知ることは出來ませぬ。只一つの例外として茲に掲ぐることの出來るのは、佛蘭西の或る學者で、或る學術雜誌に米准那をアルヂユナ(arjuna)と事もなげに還源して、何等説明なしに日本密教のことを述べて居つたことです。なる程、准那の音は、印度密教の始祖と云はるゝナーガールヂユナ(〔Na_ga_rjuna〕)のヂユナとは聲音相邇く、また金剛智三藏を通して何等かの關係を龍樹菩薩と有して居つたと思はれぬではありませんが、此の場合に准那をヂユンナまたはジユンナとしますると、「米」の字を是非ともアルと讀まねばなりませぬ。また密教を離れて、廣く印度の普通に用ひらるる名の中で此のアルヂユナと云ふ名前程、戲曲または叙事詩に於て評判の善き名前はありませぬから、何氣なく無造作にアルヂユナと還源しましたことと思ひますが、如何にせん、「米」の字には、昔から支那には、アルと云うた例は決してありません。「米」は姓として准那を名にし、准の字の上に曷羅とか、※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]とか云ふやうな字が脱落したものと見れば、將軍と云ふ言葉に對して、古から勇武を歌はれたアルヂユナの名は如何にもふさはしき感じを生じますが、さりとて、一千一百年來、弘法大師が支那から御將來の經または文書にいづれも米准那とあつて三字以外にありませぬから、種々の點から見て、遺憾ながら此の三字以外に他の字がなかつたものと諦めて、この三字だけで解釋を致さねばなりませぬ。
凡そ地名にしても、人名にしても、固有名詞だからと云うて打棄てて、其の意義を檢討せずに居ることは、眞個の學者たるものの忍びぬ所で、正しきにせよ、誤れるにせよ、何等かの解釋を加へて世に公にすることは學者の責務であります。私は茲に諸君に對し、一千餘年間等閑に附せられて居た米准那の三字の原音を尋繹致したいと思ひます。
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先づ第一に「那」の字音でありますが、これは「ナ」と云う場合は普通であります。同時に「タ」又は「ダ」と云ふ音を表幟する場合にも用ひられます。かゝる場合は娜の字を用ひますが、時ありて、「女」扁をなくして娜那混同して用ひることはあります。一例を擧げますれば、義淨三藏の作だと古代より傳説せられ、新義古義兩方の碩學から校訂出版せられて居りまする梵唐千字文、又の名は梵語千字文の中で、「聲」と云ふ字に對し攝那(セブダ 〔c,abda〕)の音譯を配し、那の字を「ダ」に響かせてあります。然るに「響」と云ふ字に對し鉢※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]底攝娜(プラテイセブダ 〔pratic,abda〕)の音譯を附し、同じく攝那の音を寫すに那の字に代はりて娜の字を使用してあります。要するに那娜二字とも「ダ」の音を寫す場合に混同してある事實を認めねばなりませぬ[#「なりませぬ」は底本では「なりせぬ」]。故に私は米准那の那を「ダ」と發音して差支へはないと思ひます。いづれこの音譯は、金剛智三藏が、廣州に到着せられた場合嶺外節度使が中央政府に報告する文書作成の際か、中書令か又は鴻臚卿の方で廣州の觀察使に回答する文書作成の際かに出來たものでありませうから、苟も舟師
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