K級は、これを理解し、體得するまでに、先づ具舍の研究から始めて確實に佛教の經論に用ひられたる用語、術語の觀念を把握せねばならなかつた。唯識の知爲眞の認識論から出發して、八不中道、百非皆遣、人法無我の高遠なる哲理を把握せんとして把握出來ず、體得出來ずして、動もすれば、淺薄皮相の懷疑に陷り、絶望の地獄に陷らんとするに臨みて事事無礙、理事圓融の哲理が現はれて、やがて即事而眞、色心一如、凡聖不二の宗教が建立せられ、小乘の佛教に説く地獄極樂の説に拘泥し、現世死後の應報の説に心を奪れた民衆は、天空海濶の自由の天地に活動の場所を發見し、輪王無價の髻珠は外に求むるまでもなく、却つて大なる自我の中にあり、胼胝窮子の辛苦して尋ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はる眞の父は、遠きに求むるまでもなく、却つて自己の眼前に居ることを悟らねばならなかつた。今日より遡りて考へて見ると、達磨大師が通商立國を國是とした南印度の國土、海に入りて寶を求むる事を建國の主義とした南印度の都邑に於て、※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]釀發生した印度文化の最高潮に達した時代の思想を支那に齎らした時代、また眞諦三藏が、南北印度交通の要衝として印度の天文地理學者が經度《メリデヤン》線の起點として定めた鬱邪尼《ウヂヤイニイ》の都の學術科學を將來した時代、即ち西暦紀元第六世紀の前半から、同じ通商立國の國即ち香至國《カーンチプラ》の艦隊に護られて金剛智三藏が入唐の時代まで、大約二百年の間かゝつて、支那に於て漸やく眞の大乘思想が會得せられ體認せられた次第でありまして、法顯三藏が其の著、佛國記中、巴連弗邑 〔Pa_tali−gra_ma〕[#tは下ドット付き] の節に於て述べ居られる如く、僅に羅越宗 〔ra_jya−sva_mi〕, また智猛の所謂羅汰私寐迷 〔rattha−sva_mi_〕[#tはともに下ドット付き](〔ra_stra〕[#stはともに下ドット付き]−〔sva_mi_〕)と稱せらるゝ一婆羅門子により北方印度に於て保護し支持せられたに過ぎなかつた大乘思想は、此の二百年の間に於て、支那に於ける知識階級の常識となり、士大夫修養の指導精神となり終せたのであります。かくなりまするまでには、印度に於ては、善財童子は道を求めて五十三の智識を訪問して請益せねばならなかつた。常啼 Sada−praru
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