なつただけであります。いづれも梵語のパルツフ又はプリツフ(parthu, prthu[#「prthu」のrは下ドット付き])、英語のブロード(broad)、獨逸語のブライト(breit)と、同系の印歐語系の言葉で「廣きもの」又は土地、國土の義を有する語であります。また安息アルサケースは、イランの東部から起りてバクトリヤから印度の北西部に亙りて國を建てた波斯語系の王朝の名で、西朝紀元前二百五十年頃から西暦紀元後二百二十六年までつゞいた王朝で、支那の歴史では秦の始皇帝頃から東漢の孝獻皇帝の禪讓の時までに亙つて居ります。日本では孝靈天皇の御宇の始頃から神功皇后の御攝政時代の第二十六年に相當致しまする年間で、印度ではかの孔雀王朝の阿育王の時代から龍樹菩薩と交渉のあつたと云はるゝ娑多婆漢那王朝の末期までの年代に相當し、隨分長くつゞいた王朝でありました。陸軍は強く、流石の羅馬の武力を以てしても、波斯と羅馬との勢力範圍の境であつたテイグリス(又はタイグリス)河を一歩も東へ進むことが出來なかつた。この王朝の王樣達の名前のつけやうを見ますと、きつぱりとは申されませぬが、大體から見て祖父または父の名を襲用した點は、前刻申上げました通り南印度のパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王朝の王樣達の名前のつけやうと類似して居ります。此等の點等から見て、パツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]王朝は安息國即ちパルテイヤ王朝の枝分であるとの説が出たものと考へられないこともありませぬ。今日ではパツラ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]族を以て、安息王朝の建設し君臨したパルテイヤ國出身であつたと云ふ説は下火になつて居り、また肝腎、此の説を提出して一時印度學者波斯學者をして、隨喜驚歎せしめた英國の學者が、進んで自説を取消して居るやうな有樣であるから、私どももかれこれ云うて進んで死灰再燃の勞に服せんとするのではありませんが、此の説はあながち反對論者の説にのみ耳を傾けて其の云ふまゝに任することは、學者の良心上出來ないのであります。反對論者は、パルテイヤ帝國の陸軍の強きことのみを見て、當時の波斯民族の海軍がアケメニード(Achemenides)王朝時代の波斯民族と同じく、依然印度洋亞剌比亞海の制海權を保有して居つたことに想到せず、ひたすら安息王朝の武士が肥馬に跨り堅甲を披て、勁弓大箭を以てイラン
前へ
次へ
全27ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング