士が、「隋唐時代に支那に來住した西域人に就いて」と云ふ論文を昭和二三年頃に發表し、私も其の論文の別刷を博士から頂戴致して居りますから、諸君の中で密教の研究史上東洋一般のことが知りたいと思はるゝ方は是非一讀を願ひたいが、桑原博士の論文中には、今日講演の問題となりて居る米准那のことは何等の記載もなく、隨つて研究もありませぬ。しかし其の他の點では、私共の蒙を啓くことが多くありまして、流石に生前中は、東洋史專攻の人々から泰山北斗の如く仰がれただけあります。亡友に對する感想の發露はやめに致しまして「米」の字の研究にとりかゝります。
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「米」(イ)此の字を國名にした國が、中央亞細亞「サマルカンド」の東にありました。彌秣賀と云ふのはこれであります。唐代ではこれを「米」國と申しましたが、これは彌秣賀の初の字彌の音譯か、また全部の字の義釋であるか判然しませぬが、ともかくも、唐代ではこの國を「米」國と云つた例から見れば、米准那の三字は、「米國生れ」と云ふ義になります。即ち、中央亞細亞の一小國で何等海洋に縁故のない國に生れて、南印度の國王に仕へ、其の舟師を率ゐて支那に向つた將軍の姓名としては、如何にもふさはしくない樣な心地は致しまするが、かゝる事は絶無とも云へませぬから一概に否定出來ませぬ。
(ロ)次には、支那には用例はありませぬが、准那の二字が波斯語系の語の音譯であるに適合せんがため、同語系の語で、「米」字の音に邇く且つ姓字に用ひられた例もあるものは、宿曜經などに「蜜」と音譯してある、中世波斯語「ミール」(Mihr)であります。太陽または日の波斯語であります。これならば、かの世親菩薩が教育したと云はるゝ幼日王《バーラーデイテイヤ》と對して、印度中原の鹿を爭うた「マヒーラ・クラ」又は「ミヒラ・クラ」又は「ミヒル・ゴラ」王の姓名の一部をなすものであるから、准那と連ねて讀むと、「ミールゼーダ」と云ふことになり、太陽の子、日の御子、又は日曜日に生れたる子などの解釋が出來て、如何にも將軍、水師提督、「アドミラル」閣下の姓字として適當のやうでありますが、如何にせん、かゝる姓字または名稱は中世波斯の文學には見當りませぬ。
(ハ)中世波斯の文學にも人名としての用例があり、支那人の加へた將軍の二字にもふさわしく、水師提督の身分經歴門地などを表幟するに足る語として、「米」字の發音に邇
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