、梵名は戍婆羯羅僧伽《シユブハカーラシンハ》であるから淨獅子と譯するは納得出來るが、「善無畏」と云ふは畢竟|戍婆羯羅《シユブハカーラ》の西藏譯 Bzan[#nは上ドット付き]−byed の音譯に外ならぬことを世に發表せられたのは、敬服の外はない。また佛國の官吏で、永らく支那または佛領印度に於て司法官として勤務し、檢事總長まで勤めたギユスターブ・ツサンと云ふ方は、煩雜極まる司法事務鞅掌の餘暇を以て、金剛智三藏の南印度から入唐せるに對し、北印度のウデイヤーナ(〔Udya_na〕)國から西藏に入つて、印度密教を西藏に扶植した蓮花生菩薩《パドマサムブハバ》(Padma−sambhava[#2つめのmは上ドット付き])の傳記 Padahi[#hは下ドット付き] Tan−yik を、十數年の星霜を費して西藏原典から流麗な佛蘭西語の詩に譯し出版せられ、世界の學者を驚歎せしめた。私も著者より一本の寄贈を受け、再三通讀致しましたが、從來、米人で支那の駐剳公使であつたロツクヒルや、英人で英領印度駐屯軍附きの軍醫ワツデル(Waddel)などの著述で、蓮花生菩薩《パドマサムブハバ》と西藏本來の宗教「ボンパ」教の道士等との爭を概略しか知るより外はなかつた私どもには、ツサン氏の名著で洵に精しく知ることが出來て、西藏に於ける密教の發展の徑路を髣髴と眼前に浮び出すやうに感ぜられて、室町時代の末期に出來たと思はるゝ宗祖大師の繪傳抄などと比較して、甚だ興味を覺える次第であります。其の外、内外學者の御著述など、拜讀致す毎に種々の點に於て教へらるゝこと多きは常に感謝の外はありませぬ。
唐の開元年代に出來た開元録には金剛智三藏の御出生の地は、南印度|摩頼耶《マラヤ》國(Malaya)で、三藏は婆羅門種の家に生れたとなつてあります。然るに稍※[#二の字点、1−2−22]遲れて出來ました貞元録には金剛智三藏は中天竺刹利王|伊舍耶靺摩《イーシヤーナ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルマン》(〔i_c,a_na−varman〕)の第三子と云ふことになつて居ります。これによりますれば、金剛智三藏の種姓は刹帝利の筈であります。また海雲記によりますれば、南天竺の國王の第三子であつたとの事ですが、たゞ國王の子とのみありまして國王の名を擧げて居ません。海雲記は長谷大僧正の御示教によりますると、海雲は、眞如親王の師惠果阿
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