に、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性《スペシアリテ》」といふものは如何とも仕方のないことである。どのやうに大衆化し、分り易いものとするにも、文学そのものの本質に附随するスペシアリテ以下にまで大衆化することは出来ない。その最低のスペシアリテまでは、読者の方で上つて来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言つて、スペシアリテ以下にまで、作者の方から出向いて行く法はない。少くとも文学を守る限りは。そして、単なる写実といふものは、文学のスペシアリテの中には這入らないものである。少くとも純粋な言葉を持たなければ、純粋な言葉を生むだけの高揚された精神を持たなければ――これだけは、文学の最低のスペシアリテである。
 兎に角芸術といふものは、作品に表現された世界の中に真実の世界があるのであつて、これを他にして模写せられた実物が在るわけではない。その意味に於ては、芸術はたしかに創造であつて、この創造といふことは、芸術のスペシアリテとして捨て放すわけには行かないものだ。
 ところで、ファルスであるが――
 このファルスといふものは、文学のスペシアリテの圏内にあつても、甚だ剽逸自在、横行闊歩を極めるもので、あまりにも専門化しすぎるために、かなり難解な文学に好意を寄せられる向きにも、往々、誤解を招くものである。
 尤も、専門化しすぎるからと言つて、難解であるからと言つて、それ故それが、偉大な文学である理由には毫もならないものである。スペシアリテの埒内に足を置く限りは、よし大衆的であれ、将又貴族的であれ、さらに選ぶところは無い筈である。(尤も拙者は、断乎として、断々乎としてファルスは難解であるとは信じません!)それはそれとしておいて、扨て――
 一体が、人間は、無形の物よりは有形の物の方が分り易いものらしい。ところで、悲劇は、現実を大きく飛躍しては成り立たないものである。(そして、喜劇も然り)。荒唐無稽といふものには、人の悲しさを唆る力はないものである。ところがファルスといふものは、荒唐無稽をその本来の面目とする。ところで、荒唐無稽であるが、この妙チキリンな一語は、芸術の領域では、さらに心して吟味すべき言葉である。
 一体、人々は、「空想」といふ文字を、「現実」に対立させて考へるのが間違ひの元である。私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費してゐるものだ。人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によつて生み出される空想が、単に、形が無いからと言つて、なんで「現実」でないことがある。実物を掴まなければ承知出来ないと言ふのか。掴むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるといふのだ。大体人間といふものは、空想と実際との食ひ違ひ[#「食ひ違ひ」に傍点]の中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して――)暮すところの儚ない生物にすぎないものだ。この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒《べらぼう》な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸ひにして人である、と言ふやうなものである、人間といふものは。
 単に「形が無い」といふことだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界[#「感じられる世界」に傍点]の実在[#「実在」に傍点]すること、そして、感じられるといふ世界[#「感じられるといふ世界」に傍点]が私達にとつてこれ程も強い現実[#「現実」に傍点]であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
 ファルスとは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精である。現実としての空想の[#「現実としての空想の」に傍点]――ここまでは紛れもなく現実であるが、ここから先へ一歩を踏み外せば本当の「|意味無し《ナンセンス》」になるといふ、斯様な、喜びや悲しみや歎きや夢や嚔《くしゃみ》やムニャ/\や、凡有《あら》ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂天《バラロキシミテ》に於て、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物が、愛すべき王様が、即ち紛れなくファルスである。知り得ると知り得ないとを問はず、人間能力の可能の世界に於て、凡有ゆる翼を拡げきつて空騒ぎをやらかしてやらうといふ、人間それ自身の儚なさのやうに、之も亦儚ない代物《しろもの》には違ひないが、然りといへども、人間それ自身が現実である限りは、決して現実から羽目を外してゐないところの、このトンチンカンの頂天がファルスである。もう一歩踏み外せば本当に羽目を外して「意味無し」へ堕落してしまふ代物であるが、勿論この羽目の外し加減は文学の「精神」の問題であつて、紙一枚の差であつても、その差は、質的[#「質的」に傍点]に、差の甚しいものである。
 ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定[#「肯定」に傍点]しやうとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャ/\であれ、何から何まで肯定しやうとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言つてやんでいを肯定し、と言つたやうなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しやうとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を、永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。哀れ、その姿は、ラ・マンチャのドン・キホーテ先生の如く、頭から足の先まで Ridicule に終つてしまふとは言ふものの。それはファルスの罪ではなく人間様の罪であらう、と、ファルスは決して責任を持たない。
 此処は遠い太古の市、ここに一人の武士がゐる。この武人は、恋か何かのイキサツから自分の親父を敵として一戦を交へねばならぬといふ羽目に陥る。その煩悶を煩悶として悲劇的に表はすのも、その煩悶を諷刺して喜劇的に表はすのも、共にそれは一方的で、人間それ自身の、どうにもならない[#「どうにもならない」に傍点]矛盾を孕んだ全的なものとしては表はし難いものである。ところがファルスは、全的に、之を取り扱はうとするものである。そこでファルスは、いきなり此の、敬愛すべき煩悶の親父と子供を、最も滑稽千万な、最も目も当てられぬ懸命な珍妙さに於て、掴み合ひの大立廻りを演じさせてしまふのである。そして彼等の、存在として孕んでゐる、凡そ所有ゆるどうにもならない[#「どうにもならない」に傍点]矛盾の全てを、爆発的な乱痴気騒ぎ、爆発的な大立廻りに由つて、ソックリそのまま昇天せてしまほうと企らむのだ。
 之はもう現実の――いや、手に触れられる有形の世界とは何の交渉もないかに見える。「感じる」、あくまで唯「感じる」――といふ世界である。
 斯様にして、ファルスは、その本来の面目として、全的に人を肯定しやうとする結果、いきほひ人を性格的には取扱はずに、本質的に取扱ふこととなり、結局、甚しく概念的となる場合が多い。そのために人物は概ね類型的となり、筋も亦単純で大概は似たり寄つたりのものであるし、更に又、その対話の方法や、洒落や、プローズの文章法なぞも、国別に由つて特別の相違らしいものを見出すことは出来ないやうである。
 類型的に取扱はれてゐる此等の人物の、特に典型らしいものを一二挙げると、例へばファルスの人物は、概ね「拙者は偉い」とか「拙者はあのこ[#「あのこ」に傍点]に惚れられてゐる」、なぞと自惚れてゐる。そのくせ結局、偉くもなければ智者でもなく惚れられてもゐない。ファルスの作者といふものは、作中の人物を一列一体の例外無しに散々な目に会はすのが大好きで、自惚れる奴自惚れない奴に拘りなく、一人として偉いが偉いで、智者が智者で、終る奴はゐないのである。あいつ[#「あいつ」に傍点]よりこいつ[#「こいつ」に傍点]の方が少しは悧巧であらうといふ、その多少の標準でさへ、ファルスは決して読者に示さうとはしないものだ。尤も、あいつ[#「あいつ」に傍点]は馬鹿であるなぞとファルスは決して言ひはしないが。又、例へば、ファルスの人物は、往々、「拙者は悲惨だ、拙者の運命は実に残酷である――」と大いに悲歎に暮れてゐる。ところがファルスの作者達は、さういふ歎きに一向お構ひなく、此等の悲しきピエロとかスガナレルといふ連中《てあい》を、ヤッツケ放題にヤッツケて散々な目に会はすのである。ファルスの作者といふものは、決して誰にも(無論自分自身にも――)同情なんかしやうとはしないものだ。頑として、木像の如く木杭の如く、電信柱の如く断じて心臓を展くことを拒むものである。そして、この凡有ゆる物への冷酷な無関心に由つて、結局凡有ゆる物を肯定する、といふ哀れな手段を、ファルス作家は金科玉条として心得てゐるだけである。
 一体ファルスといふものは、何国に由らず由来最も衒学的(出来損ひの――)なものであるが、西洋では、近世に近づくに順《したが》つて、次第にファルスは科学的に――と言ふのもちと大袈裟であるが、つまりファルス全体の構成が甚しくロヂカルになつてきた。従而、その文章法なぞも、ひどくロヂカルにこねくり[#「こねくり」に傍点]廻された言葉のあや[#「あや」に傍点]に由つて、異体《えたい》の知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる。プローズでは、已にエドガア・ポオ(彼には、Nosologie, Xing paragraph, Bon−Bon と言つた類ひの異体の知れない作品がある――)あたりから、此の文章法はかなり完璧に近いものがあるし、劇の方では、仏蘭西現代の作家マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んでくれませんか」なぞは、この方面の立派な技術が尽されてゐる。
 ところが日本では西洋と反対で、最も時代の古い「狂言」が、最もロヂカルに組み立てられ、人物の取扱ひなぞでも、これが西洋の近代に最も類似してゐる。
 で、西洋近世のロヂカルなファルス的文章法といふものは、本質的には実に単純極まりないもので、「AはAである」とか、「Aは非Aでない」と言つた類ひの最も単純な法則の上で、それを基調として、アヤなされてゐる。語の運用は無論として、筋も人物も全体が、それに由つて運用されてゐると見ることも出来る。マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」をどの一頁でも読みさへすれば、この事は直ちに明瞭に知ることが出来やう。が、このロヂカルな取扱ひは、非常に行き詰り易いものである。アシアルにしてからが、已に早くも行き詰つて、近頃は、より性格的な、より現実的な喜劇の方へ転向しやうとしてゐるが、ファルスと喜劇との取扱ひの上に於ける食ひ違ひが未だにシックリと錬れないので、喜劇ともつかずファルスともつかず、妙にグラグラして、彼の近作は概ね愚作である。
 が、然し何も、このロヂカルな方向がファルスの唯一の方向ではない。ファルスはファルスとして、ファルスなりに性格的であり現実的であり得るのである。西洋の古代、並びに、特に日本の江戸時代は、ファルスはファルスなりに余程性格的であり、かつ現実的であつた。浮世風呂、浮世床であるとか、西洋では、〔Mai^tre Pathelin〕(仏蘭西の十五世紀頃の作品)、なぞがさうである。私達のファルスは、この方面に尚充分に延びて行く可能性があるやうに考へられるし、又この逆に、概念的な、奇想天外な乱痴気騒ぎにしてからが、まだまだ古来東西にわたつて甚だシミッタレなところがあつた。なまじひに科学的な国柄だけに西洋の方に此の弊が強く、例へば、オスカア・ワイルドに「カンタビイルの幽霊」といふものがあるが、日本の落語に之と全く同一
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