FARCEに就て
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悲劇《トラヂエヂイ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|意味無し《ナンセンス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くだらない[#「くだらない」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ムニャ/\
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Mai^tre Pathelin〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振つて逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇《トラヂエヂイ》や喜劇《コメディ》よりも同等以下に低い精神から道化《ファルス》が生み出されるものとは考へてゐない。然し一般には、笑ひは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇《コメディ》といふものが泪の裏打ちによつてのみ危く抹殺を免かれてゐる位ひであるから、道化《ファルス》の如き代物《しろもの》は、芸術の埒外へ、投げ捨てられてゐるのが普通である。と言つて、それだからと言つて、私は別に義憤を感じて爰《ここ》に立ち上つた英雄《ナポレオン》では決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しやうとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが、
ところで――
(まづ前もつて白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当つても、何一つとして先人の手に成つた権威ある文献を渉猟してはゐないため、一般の定説や、将又《はたまた》ファルスの発生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、従而《したがって》、最も誤魔化しの利く論法を用ひてやらうと心を砕いた次第であるが――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないのですが――)
扨《さ》て、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当つても、敢て世論を向ふに廻して、「ファルスといへども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言はれるのも聊《いささ》か心外であるために、先づ、何の躊躇《ため》らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!)、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普《あまね》く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。
次に又、この一文に於て、私は、決して問題を劇のみに限るものではなく、文学全般にわたつての道化に就て語りたいために、(そして私は、言葉の厳密な定義を知らないので、暫く私流に言はして頂くためにも――)、仮りに、悲劇、喜劇、道化に各次のやうな内容を与へたいと思ふ。A、悲劇とは大方の真面目な文学、B、喜劇とは寓意や涙の裏打によつて、その思ひありげな裏側によつて人を打つところの笑劇、小説、C、道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。
と言つて、私は、A・Bのヂャンルに相当する文学を軽視するといふのでは無論ない。第一、文学を斯様な風に類別するといふことからして好ましくないことであり、全ては同一の精神から出発するものには違ひあるまいけれど――そして、それだから私は、道化の軽視される当節に於て(敢て当今のみならず、全ての時代に道化は不遇であつたけれども――)道化も亦、悲劇喜劇と同様に高い精神から生み出されるものであつて、その外形のいい加減に見える程、トンチンカンな精神から創られるものでないことを言ひ張りたいのである。無論道化にもくだらない[#「くだらない」に傍点]道化もあるけれども、それは丁度、くだらない[#「くだらない」に傍点]悲劇喜劇の多いことと同じ程度の責任を持つに止まる。
そこで、私が最初に言ひたいことは、特に日本の古典には、Cに該当する勝れた滑稽文学が存外多く残されてゐる、このことである。私は古典に通じてはゐないので、私の目に触れた外にも幾多の滑稽文学が有ることとは思ふが、日頃私の愛読する数種を挙げても、「狂言」、西鶴(好色一代男、胸算用等)、「浮世風呂」、「浮世床」、「八笑人」、「膝栗毛」、平賀源内、京伝、黄表紙、落語等の或る種のもの等。
一体に、わが国の古典文学には、文学本来の面目として現実を有りの儘に写実することを忌む風があつた。底に一種の象徴が理窟なしに働いてゐて、ある角度を通して、写実以上に現実を高揚しなければ文学とは呼ばない習慣になつてゐる。写実を主張した芭蕉にしてからが、彼の俳諧が単なる写実でないことは明白な話であるし――尤も、作者自身にとつて、自分の角度とか精神とか、技術、文字といふものは、表現されるところの現実を離れて存在し得ないから、本人は写実であると信ずることに間違ひのあらう筈はないけれども――斯様に、最も写実的に見える文学に於てさへ、わが国の古典は決して写実的ではなかつた。
又、「花伝書」の著者、世阿弥なぞも、写実といふことを極力説いてゐるけれども、結局それが、所謂写実でないことは又明白なところである。私は、世阿弥の「花伝書」に於て、大体次のやうな意味の件りを読んだやうに記憶してゐる。『能を演ずるに当つて、演者は、たとへ賤《しず》が女《め》を演ずる場合にも、先づ「花」(美くしいといふ観念)を観客に与へることを第一としなければならぬ。先づ「花」を与へてのち、はぢめて次に、賤が女としての実体を表現するやうに――』と。
私は、このように立派な教訓を、さう沢山は知らない。そして、世阿弥は、この外にも多くの芸術論を残してゐるが、中世以降の日本文学といふものは、彼の精神が伝承されたものかどうかは知らないが、この、「先づ花を与へる」云々の精神と全く同一のものが、常に底に流れてゐて、鋭く彼等の作品に働きかけて来たやうに思はれるのである。俳諧に於ける芭蕉の精神に於ても其れを見ることが出来るし、又、今この話の中心である戯作者達の作品を通しても、(狂言は無論のこと)、私は此の精神の甚だ強いものを汲み取ることが出来るのである。
尤も、この精神は、ひとり日本に於て見られるばかりではなく、欧洲に於ても、古典と称せられるものは概ね斯様な精神から創り出されたものであつた。単なる写実といふものは、理論ではなしに、理窟抜きの不文律として、本来非芸術的なものと考へられ、誰からも採用されなかつたのである。近世たまたま、芸術の分野にも理論が発達して理論から芸術を生み出さうとする傾向を生じ、新らしい何物かを探索して在来の芸術に新生面を附け加へやうと努力した結果、自然主義の時代から、遂に単なる写実といふものが、恰もそれが正当な芸術であるかのやうに横行しはぢめたのであつた。
この事は単に文学だけではなく、音楽に於ても、(私は音楽の知識は皆無に等しいものであるが、素人《アマチュア》として一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビュッシイの価値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰かもそれが最も斬新な、正しい音楽であるかのやうに、全く反省するところなしに単なる描写音楽を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの作品を、多く残してゐることに就て、時代の人を盲目とする蛮力に驚きを深くせざるを得ない。そして現今、洋の東西を問はず、凡そ近代と呼ばれる音楽の多くは、単なる描写音楽の愚を敢てしてゐる。斯様に低調な精神から生れた作品は、リュリ、クウプラン、ラモオ、バッハ等の古典には嘗て見られぬところであつた。単なる写実は芸術とは成り難いものである。
言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もつと純粋な領域がある筈である。
一般に、私達の日常に於ては、言葉は専ら「代用」の具に供されてゐる。例へば、私達が風景に就て会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当つて相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が、無いために、私達は言葉を藉《か》りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すに如かず、写真に頼るよりは、目のあたり実景を示すに越したことはない。
斯様に、代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて写真を挿み、(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの[#横組み]“Nadja”[#横組み終わり]には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでゐる)、そして宜しく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
言葉には言葉の、音には音の、そして又色には色の、各代用とは別な、もつと純粋な、絶対的な領域が有る筈である。
と言つて、純粋な言葉とは言ふものの、勿論言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言ふものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粋な語彙が有る筈のものではない。畢竟するに、言葉の純粋さといふものは、全く一に、言葉を使躯する精神の高低に由るものであらう。高い精神から生み出され、選び出され、一つの角度を通して、代用としての言葉以上に高揚せられて表現された場合に、之を純粋な言葉と言ふべきものであらう。(文章の練達といふことは、この高い精神に附随して一生の修業を賭ける問題であるから、この際、ここでは問題とならない。)
「一つの作を書いて、更に気持が深まらなければ、自分は次の作を書く気にはならない」と、葛西善蔵は屡《しばしば》さう言つてゐたさうであるし、又その通り実行した勇者であつたと谷崎精二氏は追憶記に書いてゐるが、この尊敬すべき言葉――私は、汗顔の至であるが、葛西善蔵のこの言葉をかりて言ひ表はすほかに、今、私自身の言葉として、より正確に説明し得る適当な言葉を知らないので、先づ此の言葉を提出したわけであるが――この尊敬すべき言葉に由つて表はされてゐる一つの製作精神が、文字を、(音を、色を)、芸術と非芸術とに分つところの鉄則となるのではないだらうか。
余りにも漠然と、さながら雲を掴むやうにしか、「言葉の純粋さ」に就て説明を施し得ないのは、我ながら面目次第もない所とひそかに赤面することであるが、で、私は勇気を奮つて次なる一例を取り出すと――
「古池や蛙飛び込む水の音」
之ならば、誰が見ても純粋な言葉であらう。蛙飛び込む水音を作曲して、この句の意味を音楽化したと言ふ人もなからうし、古池に蛙飛び込む現実の風景が、この句から受けるやうな感銘を私達に与へやうとは考へられない。ここには一切の理窟を離れて、ただ一つの高揚が働いてゐる。
「古池や蛙飛び込む水の音、淋しくもあるか秋の夕暮れ」
私は、右の和歌を、五十嵐力氏著、「国歌の胎生並びにその発達」といふ名著の中から抜き出して来たのであるが、五十嵐氏も述べてゐられる通り、ここには親切な下の句が加へられて、明らかに一つの感情と、一つの季節までが附け加へられ説明せられてゐるにも拘はらず、この親切な下の句は、結局芭蕉の名句を殺し、愚かな無意味なものとするほかには何の役にも立つてゐない。言葉の秘密、言葉の純粋さ、言葉の絶対性――と、如何にも虚仮威《こけおどし》に似た言ひ分ではあるが、この簡単な一行の句と和歌とで、その実際を汲んでいただきたい。言葉をいくら費して満遍なく説明しても、芸術とは成り難いものである。何よりも先づ、言葉を使駆するところの、高い芸術精神を必要とする。
文学のやう
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