、異体《えたい》の知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる。プローズでは、已にエドガア・ポオ(彼には、Nosologie, Xing paragraph, Bon−Bon と言つた類ひの異体の知れない作品がある――)あたりから、此の文章法はかなり完璧に近いものがあるし、劇の方では、仏蘭西現代の作家マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んでくれませんか」なぞは、この方面の立派な技術が尽されてゐる。
ところが日本では西洋と反対で、最も時代の古い「狂言」が、最もロヂカルに組み立てられ、人物の取扱ひなぞでも、これが西洋の近代に最も類似してゐる。
で、西洋近世のロヂカルなファルス的文章法といふものは、本質的には実に単純極まりないもので、「AはAである」とか、「Aは非Aでない」と言つた類ひの最も単純な法則の上で、それを基調として、アヤなされてゐる。語の運用は無論として、筋も人物も全体が、それに由つて運用されてゐると見ることも出来る。マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」をどの一頁でも読みさへすれば、この事は直ちに明瞭に知ることが出来やう。が、このロヂカルな取扱ひは、非常に
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