の本来の面目として、全的に人を肯定しやうとする結果、いきほひ人を性格的には取扱はずに、本質的に取扱ふこととなり、結局、甚しく概念的となる場合が多い。そのために人物は概ね類型的となり、筋も亦単純で大概は似たり寄つたりのものであるし、更に又、その対話の方法や、洒落や、プローズの文章法なぞも、国別に由つて特別の相違らしいものを見出すことは出来ないやうである。
類型的に取扱はれてゐる此等の人物の、特に典型らしいものを一二挙げると、例へばファルスの人物は、概ね「拙者は偉い」とか「拙者はあのこ[#「あのこ」に傍点]に惚れられてゐる」、なぞと自惚れてゐる。そのくせ結局、偉くもなければ智者でもなく惚れられてもゐない。ファルスの作者といふものは、作中の人物を一列一体の例外無しに散々な目に会はすのが大好きで、自惚れる奴自惚れない奴に拘りなく、一人として偉いが偉いで、智者が智者で、終る奴はゐないのである。あいつ[#「あいつ」に傍点]よりこいつ[#「こいつ」に傍点]の方が少しは悧巧であらうといふ、その多少の標準でさへ、ファルスは決して読者に示さうとはしないものだ。尤も、あいつ[#「あいつ」に傍点]は馬鹿であ
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