一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビュッシイの価値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰かもそれが最も斬新な、正しい音楽であるかのやうに、全く反省するところなしに単なる描写音楽を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの作品を、多く残してゐることに就て、時代の人を盲目とする蛮力に驚きを深くせざるを得ない。そして現今、洋の東西を問はず、凡そ近代と呼ばれる音楽の多くは、単なる描写音楽の愚を敢てしてゐる。斯様に低調な精神から生れた作品は、リュリ、クウプラン、ラモオ、バッハ等の古典には嘗て見られぬところであつた。単なる写実は芸術とは成り難いものである。
言葉には言葉の、音には音の、色には又色の、もつと純粋な領域がある筈である。
一般に、私達の日常に於ては、言葉は専ら「代用」の具に供されてゐる。例へば、私達が風景に就て会話を交す、と、本来は話題の風景を事実に当つて相手のお目に掛けるのが最も分りいいのだが、その便利が、無いために、私達は言葉を藉《か》りて説明する。この場合、言葉を代用して説明するよりは、一葉の写真を示すに如かず、写真に頼るよりは、目のあたり実景を示すに越したことはない。
斯様に、代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実よりは実物の方が本物だからである。単なる写実は実物の前では意味を成さない。単なる写実、単なる説明を文学と呼ぶならば、文学は、宜しく音を説明するためには言葉を省いて音譜を挿み、蓄音機を挿み、風景の説明には又言葉を省いて写真を挿み、(超現実主義者、アンドレ・ブルトンの[#横組み]“Nadja”[#横組み終わり]には後生大事に十数葉の写真を挿み込んでゐる)、そして宜しく文学は、トーキーの出現と共に消えてなくなれ。単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。
言葉には言葉の、音には音の、そして又色には色の、各代用とは別な、もつと純粋な、絶対的な領域が有る筈である。
と言つて、純粋な言葉とは言ふものの、勿論言葉そのものとしては同一で、言葉そのものに二種類あると言ふものではなく、代用に供せられる言葉のほかに純粋な語彙が有る筈のものではない。畢竟するに、言葉の純粋さといふものは、全く一に、言葉を使躯する精神の高低に由るものであ
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