の行き方をしたものがあつて――題は忘れてしまつたが、(隠居がお化けをコキ使ふ話)、私には、その落語の方が、はるかに羽目を外れて警抜であつたために、ケタ違ひの深い感銘を受けたことを覚えてゐる。と言つて、日本のファルスといへども、決して自由自在に延びきつてゐたわけではないが。
 一体に、日本の滑稽文学では、落語なぞの影響で、駄洒落に堕した例が多い。(尤も外国でも、愚劣な滑稽文学は概ねさうであるが)。いはゆる立派な、哲学的な根拠から割り出された洒落といふものは、人間の聯想作用であるとか、又、高度の頭の働きを利用し、つまりは、意味を利用して逆に無意味を強めるもので、近世風な滑稽文学(日本では「狂言」が――)が皆この傾向をとつてゐる。ところが、江戸時代の滑稽文学や、西洋の古典は、之とは別な方向をとり、人間的であるために、その洒落が駄洒落に堕して目も当てられぬ愚劣な例が多いのである。(「八笑人」を摸して「七偏人」といふ愚作が後世出たが、之なぞは駄洒落文学を知る上には最適の例でめらう。)こういふことは、ファルスを人間的に取扱ひ、浮世の風を滲み込ませやうとする時に、最も陥り易い短所であるが、しかし之も見様に由れば、技術の洗錬されないせいで、用ひ様に由つては、一見短所と見える斯様な方向にさへ尚開拓の余地はあるやうである。私は時々落語をきいて感ずるのであるが、恐らくは文学として読むに堪えないであらう愚劣なものが、立派な落語家に由つて高座で表現されると、勝れた芸術として感銘させられる場合がある。技術は理窟では習得しがたく、又律しがたいものである。古来軽視されてゐただけに、文学としての「道化」は、その技術にも多くの新らしい開拓を必要とするであらう。
 私は深い知識があるわけではないので良くは知らないのであるが、当て推量で言つてみれば、「道化」は、その本来の性質として、恐らく人智のあると共にその歴史は古いやうに思はれるし、且又、それだけに特別の努力も払はれたことはなく、大して新生面も附け加へられて来なかつたやうに考へられてならぬのである。もつと意識的に、ファルスは育てられていいやうに私は思ふのである。せめてファルスを軽蔑することは、これは無くなつてもいいと思ふが――
 肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思ふのです。Peste!



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
  
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