、異体《えたい》の知れない混沌を捏ね出さうとするかのやうに見受けられる。プローズでは、已にエドガア・ポオ(彼には、Nosologie, Xing paragraph, Bon−Bon と言つた類ひの異体の知れない作品がある――)あたりから、此の文章法はかなり完璧に近いものがあるし、劇の方では、仏蘭西現代の作家マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んでくれませんか」なぞは、この方面の立派な技術が尽されてゐる。
 ところが日本では西洋と反対で、最も時代の古い「狂言」が、最もロヂカルに組み立てられ、人物の取扱ひなぞでも、これが西洋の近代に最も類似してゐる。
 で、西洋近世のロヂカルなファルス的文章法といふものは、本質的には実に単純極まりないもので、「AはAである」とか、「Aは非Aでない」と言つた類ひの最も単純な法則の上で、それを基調として、アヤなされてゐる。語の運用は無論として、筋も人物も全体が、それに由つて運用されてゐると見ることも出来る。マルセル・アシアルの「ワタクシと遊んで呉れませんか」をどの一頁でも読みさへすれば、この事は直ちに明瞭に知ることが出来やう。が、このロヂカルな取扱ひは、非常に行き詰り易いものである。アシアルにしてからが、已に早くも行き詰つて、近頃は、より性格的な、より現実的な喜劇の方へ転向しやうとしてゐるが、ファルスと喜劇との取扱ひの上に於ける食ひ違ひが未だにシックリと錬れないので、喜劇ともつかずファルスともつかず、妙にグラグラして、彼の近作は概ね愚作である。
 が、然し何も、このロヂカルな方向がファルスの唯一の方向ではない。ファルスはファルスとして、ファルスなりに性格的であり現実的であり得るのである。西洋の古代、並びに、特に日本の江戸時代は、ファルスはファルスなりに余程性格的であり、かつ現実的であつた。浮世風呂、浮世床であるとか、西洋では、〔Mai^tre Pathelin〕(仏蘭西の十五世紀頃の作品)、なぞがさうである。私達のファルスは、この方面に尚充分に延びて行く可能性があるやうに考へられるし、又この逆に、概念的な、奇想天外な乱痴気騒ぎにしてからが、まだまだ古来東西にわたつて甚だシミッタレなところがあつた。なまじひに科学的な国柄だけに西洋の方に此の弊が強く、例へば、オスカア・ワイルドに「カンタビイルの幽霊」といふものがあるが、日本の落語に之と全く同一
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