しくありませんからね……」
「ナ、なぜだ?」
「貴方は可哀さうな博士を虐めてばかりゐるぢやありませんか! ごらんなさい! 博士のお身は傷だらけよ。可哀さうな、お気の毒な博士! どんなに苦しんでいらつしやることでせう! ねえ、皆さん。それはみんなアンゴが悪いのですよ――」
「ウ、嘘をつけ! それあ博士のオクサンが少しばかり腕つぷしが強すぎるんだい! オ、俺なんぞの知つたことぢやアないんだぞ!」
「お黙りなさい! あんたが博士を庇つてあげないのが悪いのよ! おほかた不勉強で落第しさうだから、博士のオクサマにおべつか[#「おべつか」に傍点]使つて通信簿の点数をゴマカして貰ほうつて言ふんでしよ」
「ウ、嘘だい! こう見えても俺なんざ、秀才の秀才――」
「ウ、うそつき!」
 いきなりブルン! 黒い小さな塊が突然僕に絡みついたかと思ふと、僕の鼻をギュッと握つてグリグリ捩ぢ廻した。霓博士だ! そして僕をドカンと其場へ捻り倒してしまふと博士はガンガン所きらわず踏み潰しはぢめた。
「ブラボオ! ブラボオ! アンゴをやつつけろ!……」
 何といふことだ。一座の酔ひどれ共は急に僕を憎み初めて立ち上ると、或者は僕の頭上に酒を浴せかけたり、又或者は珍しげに僕の鼻を撮んでみたり蹴つ飛ばしたりした。僕は死物狂ひに憤慨しながらジタバタしてゐたが、つひにエイッ! と立ち上ることが出来たら、其のハヅミに博士は激しく跳ね飛ばされて壁にしたたか脳天を打ちつけた。そしてフラフラと悶絶するのをクララは飛ぶやうに走り寄つて抱き上げ、
「しつかりなさい! 博士、ハカセッたら。いいわ、いいわ、博士、きつと仕返しをなさるといいわ。アンゴを落第させちまひなさいよ。ねえ、ねえ、ねえ……」
「さうだ、さうだ、全くだ! あいつを落第させちまへ!」
「チ、畜生! 分つたぞ! 君達はみんな実に卑怯千万だぞ! つまり君達はみんな日頃細君にやつつけられてゐるものだから不当にも博士に同情して僕ばかり憎むものに相違ない。君達は君達の卑劣な鬱憤を何の咎めらるべき筋もない僕によつて晴さうといふのだ。しかも此の気の毒な神経衰弱病者である僕の運命を、君達の卑劣な満足によつて更に救ひ難い悩みへまで推し進めやうとしてゐる。ことに又クララの如きチンピラ娘にあつては実に単なるヒステリイの発作によるセンチメンタリズムによつて僕を憎悪するもので、その軽卒な雷同性たるや実に憎んでもあきたりない!」
「黙れ/\/\/\――」
 ブルン! 突然空気が幾つにも千切れて、沢山の洋酒の壜が僕を目掛けて降つてきた。僕は全く困惑して部屋の片隅へ頭を抱えて縮こまつてしまつたら、ドカドカと一隊の酔ひどれ共が押寄せて来て僕を忽ち取り囲み、壁の中へめり込むくらひポカポカ僕を蹴つ飛ばしてしまつた。連中が僕をいい加減|圧花《おしばな》みたいに蹴倒してそれぞれの椅子へ引き上げる頃、霓博士はやうやく意識を恢復した。そして、クララの胸に抱かれ乍ら手厚な介抱を受けてゐる幸福な自分の姿に気付くと、博士は忽ち感激して興奮のあまりつひフラフラと再び悶絶しさうに蹣跚《よろ》めき乍ら立ち上つたが、辛うじて立ち直ると――
「ク、クララよ、おお、星の星の流星――森の樹樹樹、うう、タ、魂、魂々々、おお用意せられたる、タ、タマシヒ……ぢやアよ!」
「まあ嬉しい! あたしどんなに博士の気高い魂を頂きたいと思つてゐたことか知れませんわ! ほんとうに、こんな嬉しい日があたしの思ひ出の中にあつたでせうかしら……」
「タタタタ、魂を……」
 博士は泡を喰つて目を白黒に廻転させ、上衣を脱ぎ捨てて心臓を――身体の八方を忙しく探してゐたが、やにわにポケットへ首を捩ぢ込むと足をバタバタふるわせながら
「タタタ魂がなくなつたアよ! タタ魂ぢやアよ! タタタ魂……」
 そして博士は握り拳を大きく打ち振りながら合点合点合点と慌ただしげに宙返りを打ち初めたのであつたが、見る見るうちに速力を増し、やがて凄じい唸りを生じて部屋の四方に激しい煽りを吹き上げたかと思ふと、殆んどプロペラのやうに目にも留まらぬ快速力で廻転してゐたのであつた。
「オオオ、オレの魂を貸してやる!」
 余りの激しさに気を取られて、此の時までは流石に言葉も挿しはさめずに傍観してゐた一団の酔つ払ひは、突然一度に湧きあがつて「タタ魂を……」と絶叫しながら一様に霓博士の煽りを喰ひ、これらも亦プロペラのやうに廻転しはぢめたのであつた。――これ等|数多《あまた》の目には映らぬ酔ひどれ共の透明な渦巻を差し挟んで僕とクララはお互の姿をハッキリと睨み合ふことが出来たが、僕は突然クラクラと込上げてきた怒りと絶望に目を眩ませ、やにわにジョッキーを振り上げたかと思ふ途端にヤッ! 気合諸共クララの頭から一杯の水をザッと鮮やかに浴せかけた。そしてクララが「卑怯者――」と口惜しげに拳を突き出して飛び掛らうとしてゐるうちに、僕は忽ち扉を蹴倒して暗闇の戸外へ転がり出で、
 ――オ、俺は失恋してしまつた!
 ――オ、俺の悲しみは太陽をも黒く冷たくするであらう!
 ――オ、俺は自殺するかも知れないんだぞ! 助けて呉れえ! お願ひだ!
 と悲しげな声をふり絞つて絶叫しながら、森の入口の広茫とした草原を弾丸のやうに走つてゐたら、ズッと向ふの東の空が急にボンヤリ一部分だけ白くなつた。

[#7字下げ]4[#「4」は中見出し]

 それから丁度五日目のことであつた。
 その五日間といふものは悶々として寝床の中にもぐつたまま夜昼の分ちなく眼蓋だけを開けたり閉ぢたりしてゐたのだが、だしぬけに鼻をグリグリ捩ぢ上げる奴があるので、さてはてつきり霓博士が襲来したに違ひないとあきらめ乍ら目を開けたら思ひがけない一人の妙齢な麗人が――ピストルを突きつけて僕を鋭く睨んでゐた。慌てていきなり飛び起きて狼狽《うろた》へながら左や右を見廻したら、ばかにお天気の良い蒼空が光つてゐた。
「あたしの夫を返しなさい!」
「ニ、ニヂ博士ですか? ボ、僕が誘惑したわけでは決して……それは、つまり、たまたま毒薬を調合したところの医学博士――」
「言訳をなさると打ちますよ。すぐに博士を連れ戻していらつしやい!」
「僕は、しかし、酒場の娘と喧嘩しちやつたものですから、どうも何だか行きにくいな。それに、第一無駄なんですよ。今のところ博士はすつかりグデグデ酔ひつぶれて、おお、星の星のクララ……」
「そんなことはありません!」
「いいえ、さうです! 第一――」
「いいえ、そんなことはありません!」
「いいえ、さうですとも! 第一それは奥さんもとても美くしい方だけど、酒場のクララと来たひには、それはそれは美――ワアッ! いけねえ!」
 僕は慌てて口を押へて跳ねあがると、一つぺんに二階の窓からブルン! と一跳びに道のプラタナも飛び越えてしまひ、並木路の丁度真ん中へ落ちるが早いか一目散に逃げ出した。パン! パン! 一本の空気の棒が忽ち僕を追ひ抜いて真直向ふへ走つて行つた。
「タ、助けて呉れ! アブアブアブ……」
 一瞬にして町を過ぎ去り、広々とした草原へ零れた豆粒のやうに現れると、忽ちそれをも東から西へただ一線に貫いて――さうした忙しい合間にも広漠たる森から草原へかかつてゐるあの莫大な蒼空を薄くチラチラと目に映したが――
 やうやく酒場の丸木小屋へ辿りつくとグワン! と扉を蹴破つて――
「タ、助けて呉れ! パンパンパンだ! 酒だ酒だ、酒を呉れえ!」
 壁に作られた戸棚の上から、盲滅法にしがみついた一本の壜を抱きしめると、力をこめて栓を抜きあげ口の中へ捩ぢ込もうとした。そしたら、
 ブルン! 突然黒い塊がいきなり僕の胸倉に絡みついて、グリグリぐりぐりと鼻を撮んで捻りあげた。疲労困憊して劇しく息を切らしてゐた僕は忽ち喉を塞いで、クククククと呻いてゐるうちにドカン! と倒されクシャクシャに踏み潰されてしまつた。
「こいつ又――現れおつたアか! 不愉快なる奴ぢやアよ!」
 博士は僕を部屋の片隅へ蹴飛ばし蹴飛ばし転がしやつて遂ひに隅つこへ丸めてしまふと、悦しげにニタニタと頷き乍らクララの方へ帰らうとした――が、急に
 PAH!
 鋭い絶叫をわづかに一つ置き残したかと思ふと、もはや遥かな抛物線を遠い草原の彼方へまで描き乍ら、窓を一線に貫き通しチラチラと麗らかな光線を浴びて、まつしぐらに飛び去つて行く有様が見えた。みんなドキンとして振り返つたら、輪廓の綺麗な年若い麗人が入口にスラリと佇んで内側を厳しく睨んでゐたが、一発ズドンと天井へブッ放すやいなや、これもサッと草原の彼方へ博士を追ふて飛び去つてしまつた。
 長いこと、みんな腕組みをして頻りに何か考へてゐるフリをしてゐたが、やがてソッと窓から首を突き出して眺めてみたら、豆粒くらいにしか見えない遠い遠い草原の上で、ミミ夫人に掴まへられた霓博士は蹴られたり殴られたり土肌へツンのめされたりしてゐた。
「おお、何といふことだ!」
 さうだ、ここで霓博士を助けなければ男の一分が廃つてしまふ、男の一分よりも何よりもクララの手前として顔が立たないことにならう。そして若し霓博士を救ひ出すことが出来たなら、クララはどんなにも僕を尊敬して「まあ、騎士のやうななんて好ましい青年でせう!」と言ひ乍ら僕の胸に真紅な薔薇を挿して呉れるに違ひない! さう思ふと僕は忽ちクラクラと逆上して、
「おお、僕の愛する気の毒な博士!」
 と叫び乍ら幾度も幾度も躓《つまず》いたあげくに、やうやく目指した現場へ辿りつくことが出来たら、博士は尚もモンドリ打つて跳ね飛ばされたり叩きのめされたりしてゐた。そして此の緊張した一場の光景は、いかにも遥々した草原の上に柔い目映《まばゆ》い光を一杯に浴び乍ら行はれてゐて、見てゐると、見れば見る程実に愉しげな歓喜に溢れた遊戯のやうに思はれてしまふのであつた。僕は面白く又愉快になつて、パチパチと手を打ちながらゲラゲラ笑ひ出して見てゐたが、そしたら――
 さうだ、日頃の仇を晴らすのは此の機会を措いては滅多にあるまい、と突然僕の考へが変つたので、僕は早速ミミ夫人に加勢していきなり博士に飛び掛ると、どやしたり蹴飛ばしたり頸筋をゴシゴシ絞めつけたりした。博士は二人に散々やつつけられて悲鳴を上げる根気も失つてゐたが、辛うじて僕達の手を振り切ると這這《ほうほう》の体《てい》で死者狂ひに丸まり乍ら、ひた走りに森の中へ駈け込んで行つた。
「待て!」
 ミミ夫人は厳しくさう叫んだが、その実それは体裁だけで内心悉く鬱憤を晴らしたものらしい、別に追駈けもせずヂッとうしろを見送つてゐたが――突然僕に気が付くと忽ち帯の間からピストルを取り出して、パン!
「ワアッ! タ、助けて呉れ!」
 僕も亦一条の走跡を白く鋭く後へ残して森の中へひた走りに躍り込んでしまつた。
 僕は森の奥深くの、小高い丘の頂上へフラフラとして行き着くことが出来たので、ホッと大きな息を漏して何もかも忘れたやうな気持になつたら、実に大きな青い空が言ひ様もなく静かなものに見えたのであつた。そこで僕が長々と欠伸をしてヒョイと其の時気が付いたら、すぐ目の下の大きな松の木の根つこに、その松の木の洞穴の中へ頭をゴシゴシ押し隠してまんまるく小さく縮こまつた霓博士がブルブル顫えてゐたのだつた。それを見ると突然僕は悲しくなつて、恋に悩む人間といふものは、そして又わけの分らない苦しみや歎きや怖れや憧れを持つ人間といふものは本当に気の毒なものであると思ひやられ、なんだかメキメキ眼蓋が濡れて熱く重たくなつてきたので堪らなくなつてしまひ、
「センセーイ! もう大丈夫ですよ! 奥さんはもう行つちやいました。それから先生、さつきの事は勘忍して下さい。あれはつひ、ハヅミがついてドカドカやつちやつたんですけど、シンから先生が憎らしかつたわけではないのですから――」
 博士は突然首を擡げて振り返ると忽ち闘志満々としてボクシングの型に構え、ブルン! 鋭い真空の一文字を引いた途端に素早く僕の胸倉に絡みついたのだが、渾身の力を奮ひ集めて鼻をグリグリ捻りあげるとヤッ! 僕を山の頂上へ捩ぢ
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