が君をそんなにも失恋させて了つたのか!」
「君が最近出席しないために事務所はひどく憤慨してゐるぞ! 僕に代りを勤めろと催促してきかんから、僕は実に迷惑してゐる!」
「ウウウ、それは大いに同情するが、何分僕は斯んなにも煩悶してゐるのだから、もう暫く勘弁してくれ――」
「ソクラテスの故事を知らんか! はた又、広瀬中佐の美談を知らんとは言はさんぞ。国家のためには一命を犠牲にしたではないか。それ故銅像にもなつとる。尊公がクラスへ出んといふ法はない――」
「ムニャ/\/\/\」
 といふわけで、高遠な哲学に疎い僕は常に論戦に破れるのであつた。翌日、僕は悲愴な決心を竪め、一命を賭して博士の講座へ出席した。それが若し共産主義の旗じるしでさへ無かつたなら、僕は円タクの運転手に僕の存在を知らしめるため、赤色の危険信号旗を頭上高らかに担つて歩いたに相違ない。
 ガランとしてひどく取り澄ました教室にたつた一人で待つてゐたら、始業の鐘も鳴り終つて已にあたりもシンと静まり返つてから、突然けたたましい跫音《あしおと》が教室の扉へ向けて一目散に廊下を走つて来た。扉に殺到したかと思ふと急に忙しく把手をガチンと廻したので、誰か風みたいに飛び込んで来る奴があるのかと思つたらさうでもない、顔の半分すら教室の中へ現はさないうちに、忽ち扉を再び閉ぢて今来た廊下を全速力で戻りはぢめた。余程廊下を向ふの方まで戻つてから、「さうだ、教室の中に誰か居たやうだ――」と気付いたらしい、急に立ち止る跫音がしたと思ふと、今度は猫みたいに跫音を殺し乍ら忍び足で戻つてくる気配がした。間もなくソッと把手が廻つて、ビクビクした眼の玉が怖々と中を覗きはぢめたが、僕をハッキリ認めると怪訝な顔付をして考へ乍ら、少しづつ身体を扉の内側へ擦り入れてゐるうちに、とうとう全身教室の中へ立ち現れてしまつた。言ふまでもなく霓博士である。博士は訝しげに思案し乍ら、首を振り振りどうやら教壇の椅子へまで辿りつくことができて其処へ腰を下したが、僕を様々な角度から頻りに観察して憂はしげに息を吐いた。それから、次第に意識を取り戻したと思ふうちに、今度は莫迦に偉さうに突然胸を張つて僕をウン! と睨みつけた。
「なに故に永い間休みおつたアか!」
「実は途方もない神経衰弱に苦しめられて煩悶してゐたものですから、つひ……」
 僕が苦しげに溜息をついたら、博士は改めて神経衰弱の角度から僕の憔悴した蒼白い顔を観察しはぢめたものらしい――暫くして、絞めつけられた鶏のやうな呻き声をあげた。
「プープープー、それは甚だ宜しくなアい!」
 霓博士は暗澹とした顔をヂッと僕に向け合せて、殆んど同情のあまり今にも涙の溢れ出るやうな親密な表情をした。そして若し、博士の言葉がものの十秒も遅れて発音されたなら、僕は博士が発狂したものと感違ひして、恐怖のあまり突然窓を蹴破つて一目散に逃走してゐたに相違なかつた。
「ワシも長いこと神経衰弱に悩んどるウよ」
「ア、ア。そ、そうでしたか――」
「キミは睡眠がとれるかアね?」
「駄目です! ああ、駄目々々! 実に悲惨なものです。毎夜々々ふやけた白い夜ばかりなんですが! ああ!」
「ワ、ワシも、ワシも、ワシも悲惨――う、ぶるぶるぶるう――ワ、ワシもワシも白い夜ぢやアよ!」
 博士は殆んど悲しみのあまり今にも悶絶するところであつた。そして劇しく咳上げはぢめ胸を叩いて※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き苦しむものだから僕が慌てて介抱したら、博士は胸に痙攣を起して見ぐるしく地団太踏み乍らも、眼玉の動きや手の振り加減によつて其れとなく僕に感謝を表はすために、尚忙しく廻転しはぢめたのであつた。――斯うして僕と霓博士は、忽ち友情の頂点に達したもののやうであつた。僕達は各自の処分に就て腹蔵ない意見を披瀝し合つたり、憂はしく嘆き合つたり慰め合つたりした。そして僕が僕の身辺に垂れこめてゐる怪しげな妖気に就てつぶさに辛酸の由来を語ると、博士は又、自分は最近讃嘆すべき麗人と結婚したのであるが、その麗人はまだ至つて少女であるために自分を激しく愛撫することを知るのみで神経衰弱に対しての理解に乏しいから、自分の神経衰弱は結局、永遠に癒る時はあるまいと語り、悩ましげに溜息を吐いてゐたが、又突然深い満足の微笑をニタリニタリと合点々々頷き乍ら洩したのであつた。そして、僕は其の時ハッ! と衷心より博士は気の毒な人であると思ひ、この人を倖せにするためになら此の上さらに僕の神経衰弱を深めることも厭はないであらうと思ひ当つて、ヂッと一本の指を噛み乍ら太い溜息を洩したりして真剣に知恵を運《めぐ》らし初めたのであつた。そして――
 あの、森の酒場を突然彷彿と思ひ出したのであつた――
 広漠として殆んど涯も知れないその森の入口に一軒の酒場が立てられてゐた。森の入口はと言へば此は又広茫としたなだらかな草原で、見渡したところ八方に人々の棲む何の気配もないのだが、大いなる落日が森の奥へ消え落ちて東の平野から広い夜が這ひ上つてくると、急にフワフワと何処から現れるものともつかず実に可笑しな奴ばかりが森の酒場へ集つてくるのだ。煙草をふかし乍ら勿体ぶつて考へてばかりゐる三文詩人がゐるかと思ふと、見てゐたらいきなり彼の二つの耳から白くモクモクと煙を吹き出し嵐のやうな劇しい思索に耽りはぢめたのであつた! 凡そ常連の一人として一列一体に異体《えたい》の知れた奴はない。僕も昔は此の酒場の古い常連であつたのだが、神経衰弱に悩まされて以来《このかた》は、それも畢竟此等のてあひ[#「てあひ」に傍点]の醸し出す酒場の妖気に当てられた所為でもあらうかと思ひ、堅く禁酒を声明して森に足を向けなくなつた。――思へば迂闊にも忘れてゐたが、全て物事には珍重すべき「逆」といふものがあるのだ。ことに神変不可思議な神経衰弱の如き端倪すべからざる代物《しろもの》にあつては、逆こそ唯一の手段として何を措いても試みるべき性質のものではないか――
 森の酒場へ! さうだ! 森の酒場へ!
 僕は忽ち興奮して殆んど涙を流さんばかりに感激し乍ら騒しく博士の手を握り、僕の頭に揺影した新鮮な映像に就て説明した。そして僕達は忽ち已に病魔を征服したもののやうに有頂天となつてしまひ、あの広茫とした森の酒場へ! 唱歌を高らかに歌ひながら行進したのであつた。――その日から、昼は昼、夜は夜で、明け暮れ博士は森の酒場へ入り浸り終日デレデレと酔ひ痴れずには夜の明けない尊きバッカスの下僕となつたのであつた。
 ――おお、愛しい森の娘クララよ!
 それがこの「森の酒場」の陽気な行事である通りに、博士も亦大いなる壺に水を満し其れにしたたかキュムメルを加へて妙なる青白き液体となし、酒場の娘クララの青春を讃へ乍ら我が魂を呑むが如くに呑みほす途端に、位置に多少の錯覧を起して何のためらう所もなくザッと全身に浴びて了ふのであつた。「う、ぶるぶるぶるう……」と呻き乍ら忽ち博士は博士独特の方法によつて逆立ちし背や腹へ廻つた液体を排出しやうとするのだが、それらは已に全く深く浸みついて動きがとれないものだからワッ! と叫んで七転八倒の活躍をしはぢめ、挙句の果に力も尽きてグッタリ其処らへ倒れたまま劇しく痙攣を起すのであつた。クララは博士を抱き上げて濡れた顔を親切に拭いてやり、
「博士はもう今日は一滴も呑んではいけませんの――ね、約束しませうよ。博士は三文詩人や落第生みたいな手のつけられない呑んだくれぢやありませんわね……」
「ワ、ワシは手のつけられない呑んだくれぢやアよ」
 博士は突然クララの膝から立ち上つて走り出し、アブサンの壜を抱えていきなりポン! と慌ただしげに栓を抜こうとするのであつた。
「およしなさい! それこそ動けなくなつてしまふわ。奥さんに叱られますよ!」
「ウー、違わあい! それは、嘘ぢやあよ」
 博士はてれて恥しげに縮こまり乍らモヂモヂと言訳を呟き――そしてチラリと僕に流眄《ながしめ》を浴せて殆んど僕の死滅をも祈るかのやうな怖しい憎しみを強調してみせるのであつた。斯うして博士は僕を激しく憎み初めたのだ。

[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]

 森の酒場では、夜更けから夜明けへ移る不思議に間の抜けた懶い瞬間に、(それが毎日の習慣であつたが)一つのクライマックスが――あらゆる悦び、あらゆる悲しみ、あらゆる歎き、あらゆる苦しみの最大頂天《バラキシミテ》であるところの旋風のやうな狂乱が、湧き起るのであつた。怪しげなてあひ[#「てあひ」に傍点]によつて嵐の如く吹きあげられる一日の酔気が、恰も朦朧とした靄となつて部屋の四隅に彷徨ひ流れ、莫大な面積をもつ変な爛れがチクチクと酔ひ痴れた頭を刺す刻限になると、誰といふこともない、突然誰か先づ一人が立ち上るのだ。そして――
「おお、星の星よ、樹の樹、空の空、娘の中の娘であるクララよ! 拙者の魂はお前の可愛らしい足もとへ捧げられるために、いかばかり此の一日を清らかに用意されたことであらうか!……」
 彼は出鱈目な言葉を敬々《うやうや》しく呟き終ると、やにわに彼の心臓へ手を差し入れて魂を掴み出さうとするのである。すると――魂がなくなつてゐる! 彼は慌てて胃嚢《いぶくろ》を探しはじめるのであつたが、次第に苛立たしげに狼狽を深めて自分の耳を引つ張つたり舌を出して撮んだりポケットを探したり靴を脱ぐとガタガタ揺さぶつたりしてゐるうちに、皆目見当を見失つてワア――落胆して口をパクパク言はせてゐるが、遂ひに猛然として気狂ひのやうに部屋一面を走り初め、空気の中から彼の魂を握《つか》み出さうとして激しく虚空を掴むのであつた。
「お、おれの魂がなくなつたあ! お、俺の魂を探して呉れえ! わあわあ悲しい……」
「お、俺の魂を貸してやるから心配するな!」
 見兼ねた奴が突然目の色を変へて立ち上ると、サッと心臓へ手を差し入れるが其処にも無い――彼は慌てふためいてポケットの裏を返したり舌を撮んだりしてゐるうちに、これもワアッ! と逆上して空気に躍りかかるのであつた。
「お、俺の魂がなくなつたあ!」
「心配するな! お、俺のを貸してやる!」
「お、俺の魂を貸してやる!」
「お、俺のを……」
「お、俺のを……」
 斯うして部屋中の酔つ払ひが、一様に卓子を倒し椅子を踏みつけ右往左往湧き上つて、目の色を光らせ乍ら空気を追駈け廻るのであつた。その時まで止め損つてフラフラしてゐた酒場の親父もワアッ! と気附いて忽ち上衣をかなぐり捨て――
「シ、心配するな! オ、俺の魂を貸してやる!……」
「アラ変だわよ、お父さんの魂なんて……」
「バ、バカぬかせ!」
 ヤッ! と心臓を探したところが、これも亦見当らない――慌ててズボンのポケットを掻き廻したり靴を振つたりしてゐるうちに、彼も亦皆目見当を見失つてワアッ! と逆上しながら空気の中へ躍り込んでしまふのだ。最後に一人取り残されたバアテンダアが――
「ワアワアワア! マ待つて呉れえ! 家が潰れてしまふよう! 大変だあ、大変だあ! タ、魂を拵へるから、マ、待つて呉れえ、タ、頼むからよう!……」
 と泣き喚きながら、やにわにカクテル・シェーカアの中へ自分の身体をスッポリもぐすと、これにコニャックとジンを注ぎ込みシャルトルーズに色づけをしてクルクルくるくると廻転しはぢめるのだ。タッタッタッとグラスを並べて身体諸共躍り込み、
「デ、デ、デキタ!――」
「ワッ!」
 一群の酔つ払ひは嵐のやうに殺到して、グイグイ呑みほしてしまふと、グッタリ其の場へ悶絶して動かなくなつてしまふのだ。そしてその頃ホノボノと森の梢に夜が白みかかつてくるのであつた。――霓博士が此処の常連に加はつて以来、この廻転の速力が一段と目まぐるしい物になつたと言はれてゐる。

 ところが或日のことであつた。その夜は僕が先づ真つ先に立ち上つて、クララに魂を捧げやうとしたのであつた。
「おお、星の星、樹の樹、空の空!」
「お止しなさい! そして貴方なんか森の奥底へ消えてしまふといいんだわ。あたしは貴方のやうなネヂけた人の魂なんか欲
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