卑怯者――」と口惜しげに拳を突き出して飛び掛らうとしてゐるうちに、僕は忽ち扉を蹴倒して暗闇の戸外へ転がり出で、
――オ、俺は失恋してしまつた!
――オ、俺の悲しみは太陽をも黒く冷たくするであらう!
――オ、俺は自殺するかも知れないんだぞ! 助けて呉れえ! お願ひだ!
と悲しげな声をふり絞つて絶叫しながら、森の入口の広茫とした草原を弾丸のやうに走つてゐたら、ズッと向ふの東の空が急にボンヤリ一部分だけ白くなつた。
[#7字下げ]4[#「4」は中見出し]
それから丁度五日目のことであつた。
その五日間といふものは悶々として寝床の中にもぐつたまま夜昼の分ちなく眼蓋だけを開けたり閉ぢたりしてゐたのだが、だしぬけに鼻をグリグリ捩ぢ上げる奴があるので、さてはてつきり霓博士が襲来したに違ひないとあきらめ乍ら目を開けたら思ひがけない一人の妙齢な麗人が――ピストルを突きつけて僕を鋭く睨んでゐた。慌てていきなり飛び起きて狼狽《うろた》へながら左や右を見廻したら、ばかにお天気の良い蒼空が光つてゐた。
「あたしの夫を返しなさい!」
「ニ、ニヂ博士ですか? ボ、僕が誘惑したわけでは決して……それは、つまり、たまたま毒薬を調合したところの医学博士――」
「言訳をなさると打ちますよ。すぐに博士を連れ戻していらつしやい!」
「僕は、しかし、酒場の娘と喧嘩しちやつたものですから、どうも何だか行きにくいな。それに、第一無駄なんですよ。今のところ博士はすつかりグデグデ酔ひつぶれて、おお、星の星のクララ……」
「そんなことはありません!」
「いいえ、さうです! 第一――」
「いいえ、そんなことはありません!」
「いいえ、さうですとも! 第一それは奥さんもとても美くしい方だけど、酒場のクララと来たひには、それはそれは美――ワアッ! いけねえ!」
僕は慌てて口を押へて跳ねあがると、一つぺんに二階の窓からブルン! と一跳びに道のプラタナも飛び越えてしまひ、並木路の丁度真ん中へ落ちるが早いか一目散に逃げ出した。パン! パン! 一本の空気の棒が忽ち僕を追ひ抜いて真直向ふへ走つて行つた。
「タ、助けて呉れ! アブアブアブ……」
一瞬にして町を過ぎ去り、広々とした草原へ零れた豆粒のやうに現れると、忽ちそれをも東から西へただ一線に貫いて――さうした忙しい合間にも広漠たる森から草原へかかつてゐるあの莫大な
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