なってしまった。然し彼は標高一四五〇|米《メートル》という山塊を屋敷の背中にひかえ、又、谷を距てた前面にも標高一二八〇米から一一〇〇米ぐらいの小連峯をひかえ、これがみんな彼の持ち山なのである。
彼の県内にも戦災都市があり、冬は寒い国柄であるから、建築用材、木炭、薪、需要は大いにある。けれどもこんな山奥からでは運賃に食われるから、亭々たる大木が無限にあっても宝の山をいだきながら、一文にもならない。戦争中は挺身隊だの学徒隊だのというのが無賃で運送に来てくれたから、このへんの炭焼きは儲けたものだが、今はそれもダメ、有り余って、村内ではマル公の半値以下で捨売りされており、炭焼もこの節は炭を焼かずに田畑を耕している。その田畑はつまり元は正一郎の田畑をマル公で買った性質のものである。
株券は紙クズであり、預金は封鎖され、この山奥では新円稼ぎに映画館をブッ建てるわけにも行かず、ヤミ会社を始めることもできない。
米もミソ醤油も配給であり、せめて※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を買い卵ぐらい盛大に食いたいと思ってもエサがないとは何事であるか。目下彼の最大の秘宝は三頭の山羊で、この乳だけが魔法の泉、エネルギー、生命の源泉というわけで、彼は人にやりたくないから一斗二升ぐらいずつ毎日でてくる魔法の泉を女房子供一家四人で無理して呑む。幸蔵一族、貞吉、衣子には一滴もくれてやらない。
正一郎はケチのくせに見栄坊だから、自分で田を耕す決断がつかなかった。彼の親類に当る地主たちは、一家ケンゾク各々私田を開墾し、肥《こえ》タゴかついで勇敢にやっているという時節柄だが、彼だけは一|段歩《たんぶ》の私田も残さず、それというのが、彼はひところ何々会社取締役というようなことを三つばかり兼ねていたようなこともあるから、実業界でなんとかなろうと見込んでいたせいもあった。然し、戦争中、山奥の疎開がてら引ッ込んだのが運のつき、人情人心ガラリと変って、もう一度切れた糸をつなぐことはできない。本土決戦、然し、本土が戦場になる前に町が燃えてしまう、まるでもうお焼き下さいというようなタキツケみたいな都市なんだから、タキツケの中に火タタキなどを一本そなえて天を睨んでガンバッたってどうなるものか。
そこで彼は都市の住居を売り払い、タキツケを何万で買うとはバカな奴よと、一人しすましたり山奥のふるさとに落付き、然し彼はこのとき意外な失策をやった。
彼は小心臆病であった。嘘かホントか知らないけれども、敵機は夜間に燈火をめがけて投弾する、そこで空襲なぞよその話と電燈つけて高イビキの山奥へ投弾されて、たった一軒ふきとばされたり山林火事になったりする、そんな話もあるところへ、彼の村では燈火を消さずに寝ている奴バラがたくさんある。他人の家はさておき、彼の家のトメという女中とカメという下男は特別に心掛のよからぬ奴で、アカリを消したことがない。何べん言ってきかせてもダメであるばかりか、そんなオメサマ、何千里も海を渡ってとんできて、こんな山奥へ、そんなムダなこと、しませんテバ、と口ごたえする。カメもトメも薄馬鹿であるが、どこできいたか、アメリカの機械といえば日本は遠く足もとへも及ばんもんだ。日本の飛行機ハネ、夜になるとメクラになるからウラトコの山へ落すもんだ、アメリカの飛行機はソンゲナ馬鹿なこと、しませんガネ、と言う。
もとより正一郎はレーダーの威力を知っているから、この山奥へ逃げこんで、戦車に体当りの下界のモロモロの低脳どもを冷やかに見下していたのであるが、カメに虚をつかれて逆上した。
カメは正一郎が物心ついた時にはもうこの家に働いていた主のような薄ノロであるが、山羊の乳を飲みへらして持ってくる、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の卵を朝ごとに四ツ五ツのみこんで三ツ四ツ残して運んでくる、青大将のような奴で、二度と卵と乳を呑むとヒマをやるぞと言い渡してもヘラヘラ笑って、この節は炭を焼いても日に百円にはなるもんだ、オラの月給はたゞみたいの二十円で、マンマは腹に半分食せてくれんガネ、ヒマになったらいゝもんだと捨ゼリフして二三日炭焼き小屋へ手伝いなどに消えてなくなり、三日もたつと忘れた顔して下男部屋に戻っており、すでに卵を四ツ五ツ飲んでいるというグアイであった。
正一郎は都市にいるころは空襲警報にも起きたことがなかったのに、山奥へきてからは、警報がでると猛烈な勢いで屋根裏の下男部屋へ駈け上って、電燈を消す。カメの枕をけとばして、このヤローなぜ消さんか、なんべん言ったら納得するんだ、するとカメは、ねむたい時は返事もせず、枕をけとばされてもグウグウねむり、起きてる時は、
「なアにさ、オメサマ、ここへ落ちれば、いゝもんだ。山奥のコンゲナ古屋敷がミヤコの代りに灰になれば、忠義なもんだ。ウ
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