長は鉄砲弓五百人、三間半の長い槍が五百人、自分の家来殆ど全部ひきつれて、木曾川を渡ってやってきた。兵隊の数は多くはないが、装備は立派なものである。
ところがその行列のマンナカへんに馬に乗ってる殿様がものすごい。頭は茶センマゲと云って、髪を一束にヒモで結えただけの小僧ッ子の頭である。その日のヒモはモエギであった。このバカ小僧はマゲを結ぶヒモの色に趣味があって、モエギかマッカの色のヒモしか使わないというのはすでに評判になっている。
明衣《ゆかたびら》の袖を外して着ている。大小に荒ナワをまいて腰にさし、また火ウチ袋を七ツ八ツ腰にぶらさげている。腰に小ブクロをたくさんつけてるのは当時猿マワシの装束がそうだった。信長の様子はその猿マワシにそっくりだった。
ところがこの火ウチ袋は信長の魂こめた兵法の必然的な結果であった。それは彼に従う鉄砲組の腰を見れば分るのだ。みんな七ツ八ツの火ウチ袋をぶらさげているのだ。袋の中には多くのタマと火薬などが入っていた。
知らない人々が解釈に苦しむのは無理もない。彼らにとっては、鉄砲とはただ一発しか射てないものだと相場がきまっていたからである。多くのタマや火薬を腰にぶらさげる必要なぞ考えることもできなかったのである。そして猿マワシに似たカッコウを笑うことしか知らなかった。
しかし、道三に袋の意味が分らぬ筈はなかった。
信長はまるで風にもたれるように馬上フラリフラリと通って行く。虎の皮と豹の皮を四半分ずつ縫い合せた大そうな半袴をはいていた。どこからどこまで悪趣味だった。
道三は笑いがとまらない。必死に声を殺すために腹が痛くなるのであった。
ところが、信長は正徳寺につくと、一室にとじこもり、ビョウブをひき廻して、ひそかに化粧をはじめた。カミを折マゲにゆう。肩衣に長袴。細身の美しい飾り太刀。みんな用意してきたのだ。
ビョウブを払って現れる。家来たちもはじめて見る信長の大人の姿であった。水もしたたるキンダチ姿であった。
信長は本堂へのぼる。ズラリと物々しいガンクビが居並んでいる。知らんフリして通りすぎ、縁の柱にもたれていた。
やがて道三がビョウブの蔭から現れて信長の前へ来た。信長はまだ知らんフリしていた。道三の家老堀田道空が――彼はこの会見の申し入れの使者に立って信長とはすでに見知りごしであるから、
「山城どのです」
と信長に云った。すると信長は、
「デアルカ」
と云って柱からはなれ、シキイの内へはいって、それからテイネイに挨拶した。
ただちに別室で舅と聟の差向い。堀田道空の給仕で、盃ごとをすませ、湯漬けをたべる。二人は一言も喋らなかった。
道三は急に不キゲンになった。毒を食ったような顔になって、
「また、会おう」
スッと立って部屋をでてしまった。
★
世間へもれた会見の様子はこれだった。
ところが、この日を境いにして、道三と信長はその魂から結び合っていたのである。
信長が正徳寺の会見から帰城すると、その留守中を見すまして、亡父の腹心山口がムホンし、しきりに陣地を構築中であった。
つづいて多くの裏切りやムホンが起った。彼らは道三が大バカヤローの聟に見切りをつけて、バカの領地は遠からず道三の手中に帰するだろうと考えたのである。
ところがアベコベだ。彼らがムホンする。兵力の少い信長はほとんど全軍をひきつれて討伐にでなければならない。すると道三が部下に命じて兵をださせ、信長の留守の城を守ってくれるのであった。
その援兵は、もし欲すれば、いつまでも留守城を占領することができた。そして、信長を亡し、所領を奪うことができたのである。
信長はそれを心配したことがなかった。いつもガラあきの城を明け渡して戦争にでかけるのだ。しかし、信長の敵たちはまだ道三の心を疑っていた。そんな筈は有りッこないと思ったのである。今に信長はやられるだろうと考えていた。一年たち、二年たった。信長はやられない。
人々は仕方なしに大悪党のマゴコロを信じなければならなくなった。薄気味わるくなってきた。やられるのは信長ではなくて、信長の敵の自分たちかも知れないと感じるようになったのである。ウッカリ信長に手出しができなくなってしまった。失われた信長の兵力は少しずつ恢復しはじめた。
★
義龍にライ病の症状が現れた。
「六尺五寸のバカでライ病。取り柄がないな」
道三は苦りきった。
義龍はひそかに自分の腹心を養成し、また寄せ集めた。マジメで、行いが正しくて、学を好み、臣下を愛した。全てが道三のやらないことであった。
「六尺五寸もあって、それで人前で屁をたれることも知らないバカだ」
道三の毒舌は人々を納得させるよりも、むしろ人々を義龍に近づけ彼らの団結を強くさせる役に立った。その勢力は次第に大きくなった。
「義龍公は土岐の血統だ。美濃の主たる正しい血だ」
その声は次第に公然たるものになってきた。
稲葉城は大きい城であった。しかし一ツの城の中に、その城の主人と、主人を仇敵と狙う子供がそれぞれの部下をかかえて一しょに同居していることは、差し障りがなければならない。
ところが道三は案外平気であった。
「六尺五寸の化け物め。いまにオレが殺されるぞ」
義龍が土岐の血統と名乗るようになったのは、まだ二十の頃からでもう十年ちかくなるのである。彼が土岐の血統なら、道三は彼の父ではなくて、仇である。当り前の結論だ。
道三は自分の立身出世のために人を殺す機会には、機会を逃さず、また間髪をいれず、人を殺してきたものだった。彼は人の顔を見るたびに考える。いまこの人間を殺すこともできるな、と。人間どもが平気な顔で彼と対座しているのが奇妙な気持になることもある。オレの心を見せたいなと思った。
むろん義龍を殺す機会はあった。非常に多くあった。これからも有りうる。信長を殺す機会がいつでもあると同じように。
いつでも殺せるが、オックウだった。なんとなく、そんな気持ですごすうちに、今のようになってしまった。今ではその腹心が堅く義龍をとりまいていて、殺すのも大仕事になってしまったようである。
しかし、早いうちなら義龍を簡単に殺せたろうかと考えると、これも案外そうでないような気がするのだ。
むろん殺す実力はある。今でも殺す実力はある。しかし、実力の問題ではなく、それを決行しうるかどうかという心理的な、実に妙な問題だ。
信長に濃姫を与えたのはナゼだろう? そのころ信長は評判の大バカ小僧であった。自分の領内の町人百姓の鼻ツマミとは珍しい若様がいるものだ。
なぜ鼻ツマミかというと、町では店の品物を盗む。マンジュウとかモチとか、大がい食物を盗むのだ。野良でも人の庭の柿や栗や、腹がへるとイモや大根もほじくって食ってしまう。畑の上で相撲をとる。走りまわる。鼻ツマミとは無理がない。
むろん頭はバカではない。よその殿様の子供のやらないことだけやってるようなバカなのだ。
そのバカが、たしかに道三の気に入ったのは事実なのだが、ナゼ気に入ったかと考えてみると、その裏側に彼と対しているのが、クソマジメで、勉強家で、聖人ぶって、臣下を可愛がって、むやみに殿様らしい様子ぶったことをしたがる義龍という存在だろう。トドのつまりは、そうらしい。
つまり道三にとっては、義龍という存在が、どうやら心理的に殺すことができない存在なのかも知れない。信長という対立的なものを選んで味方にしたところを見ると、自分でもそんな気がするのであった。何か宿命的なものが感じられた。
そして、義龍を殺すことよりも、義龍に殺されるかも知れないということをより多く考えるようであった。いつでも義龍を殺せるうちから、すでにそうだった。
むろん、義龍に殺されるのが心配で、対立的な信長を味方にしたわけではないのである。しかし、今になって、結果から見ると、まるでその予算を立てて信長を濃姫の聟に定めたようなことになっている。あるいは、そういう秘密の気持があったのに、自分ではそれに気付かなかったのかも知れないと考えたりするのであった。
それはまったくフシギな心だ。なぜなら、今だって義龍を殺すことができないわけではないじゃないか。
「どうも、まったく、目ざわり千万な奴だ。六尺五寸もあって、モッタイぶって、バカで、ライ病だ」
しかし、すべてが、オックウだ。六尺五寸のライ病殿に関する限り、すべてがオックウの一語につきる。そして、ふと気がつくと、
「あの化け者めにオレの寝首をとられるか」
そう考えているのであった。久方の光がしず心なく降るが如くに、そう考えているのであった。
★
その年の秋、三男の喜平次を一色右兵衛大輔とした。これにいずれは後をゆずる腹であった。道三は下の子ほど可愛いのだ。
「喜平次はオレも及ばぬ利口者」
こう云って崇敬したが、誰もその気になってはくれなかった。しかし道三は大いに喜平次を崇敬して満足であった。
そして、十一月二十二日、例年通り山下の館で冬を越すために城を降りた。
義龍は十月十三日から病気が重くなって、臥せっていた。道三が冬ごもりから戻るころには大方死んでいるだろうという話であった。道三もそれを疑わなかった。要するに、そんなものか、と城を降りたのである。
しかるに義龍の病気は仮病であった。道三が山下へ降りたので、道三の兄に当る長井|隼人正《はやとのしょう》が義龍の使者となり、喜平次と孫四郎を迎えにきた。
「義龍が死期がきて、いまわに言いのこすことがあるそうだから」
伯父が使者だから二人も疑わない。そして兄の病室へはいったところを、待ちぶせた人々に斬り殺されてしまったのである。
この報をきくと、道三はただちに手兵をまとめて美濃の山中へ逃げこんだ。翌年四月まで山ごもりして、四月十八日、六尺五寸の悪霊と決戦のために山中をでて鶴山《つるやま》に陣をはったのである。
★
道三が義龍に城をとられて山中へ逃げこんだから、それまで鳴りをしずめていた信長の敵は色めきはじめた。織田伊勢守のように、たちまち義龍と組んで信長の城下を焼き払う者もあり、やがて一時に味方の中から敵がむらがり立つ形勢が近づいていた。
四月十八日に道三が出陣と分ったが、もし信長が道三の援軍にでかけると、その留守に彼もまた城をまきあげられる怖れがあった。誰がまきあげるか分らないが、親類も重臣も、いつ背いてもフシギのないのがズラリとそろっているのであった。
しかし、道三を助けたい。勝敗はともかくとして、この援軍に出ることをしないようでは、織田信長という存在は無にひとしいと彼は思った。
しかし、その留守に城をまきあげられるようでは、道三を苦笑させるだけの話であろう。二十三歳の信長は全身の総血をしぼってこの難局と格闘した。
尾張の本来の守護職は斯波《しば》氏であった。その子孫は信長の居候をしていた。
三河には足利将軍家の次の格式をもつ吉良《きら》氏が落ちぶれて有名無実の存在となっていた。今川氏の世話をうけていたが、今川よりも一ツ格式は上の名家であった。
信長は今川に使者をだし、今後斯波氏を立てて尾張の大守とするから、三河も吉良を大守とたて、両家のヨシミを結びたいと申し送り、今川の同意を得た。すでに四月だ。
信長は自ら斯波氏を送って三河へ行き吉良氏と斯波氏参会、式礼をあげて、ヨシミをとげて、尾張へ戻る。つづいて、斯波氏を尾張の国守と布告する。自分は城の本丸を居候の斯波氏に明け渡し、それまで斯波氏が居候をしていた北屋蔵へ引越して隠居した。
こうしておいて、急いで美濃へかけつけた。もう道三の出陣だった。
自分の城が今では自分の城でなくて、斯波氏の城だ。彼はそこの居候の隠居にすぎない。この計略によって、信長の敵が彼の城を分捕ることを遠慮するかどうか。そこまでは分らないが、これが信長の総血をふりしぼって為し得たギリギリの策であった。
しかし道三は信長の援軍などは当にしていなかった。そのとき信長の
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