、一応長井に同意の様子を見せた次第です。日夜告白の機をうかがい、ひとり悩んでおりました」
 妙椿は庄五郎の忠誠をよろこんだ。
「お前長井を討ちとることができるか」
「お易い御用です。心ならずも長井に一味の様子を見せたお詫びまでに、長井の首をとって赤誠のアカシをたてましょう」
 簡単に長井をだまし討ちにした。そして自ら長井の姓をとり、長井新九郎と改名して、家老の家柄になりきってしまった。彼が長井氏の正しい宗家たることを認めない一族に対しては、長井宗家の名に於て遠慮なく断罪した。
「長井の血に於て異端を断つ」
 それが罪状の宣告である。正義とは力なのだ。
 妙椿は長井新九郎のやり方が面白いようにも思ったが、なんとなく大人げないようにも思った。
「長井にこだわりすぎやしないか。お前はお前であった方が、なおよいと思うが」
「お前と仰有いますが、長井新九郎のほかの者はおりません。拙者は長井新九郎」
「なるほど」
 坊主あがりの妙椿は、新九郎が禅機を説いているのだなと思った。痴人なお汲むナントカの水という禅話がある。痴人にされては、かなわない。
「拙者は長井新九郎」
 新九郎は腹の底からゆすりあげるように高笑いした。
 法蓮坊の屈辱をいま返しているのかも知れなかった。売僧《まいす》をも無双の名僧智識に仕立てることができたであろう長井の門地はいま彼自身である。
 妙椿は新九郎がたぶん禅機を還俗させたようなシャレを行っているのだろうと思っていた。そして、彼の本心を知ったならば、身の毛のよだつ思いがしたかも知れない。なぜなら、新九郎は自分の血管を流れはじめた長井の血を本当に見つめていたからである。彼を支えているものは、その新しい血でもあった。
 妙椿は自分の無能に復讐される時がきた。新九郎が毒を一服もったのである。妙椿はわけの分らぬ重病人になった。そして死んだ。
 妙椿の家族はお家騒動を起しはじめた。すると新九郎は死せる妙椿の名に於て彼らを誅伐し、その所領をそっくり受けついでしまったのである。ついでに、斎藤の家と、その血をも貰った。彼は再び改名して、斎藤山城守利政となった。後に剃髪して、斎藤山城入道|道三《ドーサン》と称した。
 新しい血がまた彼の血管を流れている。道三はそれを本当に見つめているのだ。古い血はもはやなかった。道三はそれを確認しなければならないのだ。
 美濃一国はまったく彼のものであった。全ての権力は彼にあった。しかし土民たちは美濃古来の守護職たる土岐氏の子孫を尊敬することを忘れなかった。
 道三は腹を立てた。そして、その子孫たる土岐|頼芸《よりよし》を国外へ追放した。しかし、すでに無能無力だった土岐氏の家名や血を奪う必要はなかった。その代り、頼芸の愛妾を奪って自分の女房にしたのである。
 道三は新しい血をためすために、最大の権力をふるった。その血は、彼の領内が掃き清められたお寺の院内のように清潔であることを欲しているようであった。
 院内の清潔をみだす罪人を――罪人や領内の人々の判断によるとそれは甚しく微罪であったが――両足を各の牛に結ばせ、その二匹の牛に火をかけて各々反対に走らせて罪人を真二ツにさいたり、釜ゆでにして、その釜を罪人の女房や親兄弟に焚かせたりした。
 道三の悪名はみるみる日本中にひろまった。日本一の悪党という名は彼のものである。彼ぐらい一世に悪名をもてはやされ、そして誰にも同情されなかった悪党は他の時代にも類がなかったようである。
 しかし、彼は戦争の名人だった。彼が多くの長槍と多くの鉄砲をたくわえ、特に鉄砲については独特な研究に没入していることは諸国に知れていたが、兵法の秘密はまだ人々には分らなかった。彼の戦法は狡猾で、変化があった。近江の浅井、越前の朝倉、尾張の織田氏らはしばしば彼と戦ったが、勝ったあとでは手ひどくやられる例であり、そのやられ方は意外な時に意外の敗北を喫しているだけの正体のハッキリしない大敗北であった。
 彼が罪人を牛裂きにしたり釜ゆでにしたりするのに比べると、それほど積極的に戦争を好んでいるようにも見えなかった。実際は天下に悪名が高いほど牛裂きや釜ゆでに入れあげていたわけでもなかった。お寺の中をいくら掃き清めてもつもる埃りは仕方がないように、浜のマサゴはつきないことを知っていた。敵の数も浜のマサゴと同じようにつきないことを知っていたのだ。三国や四国の敵を突き伏せてみても、それでアガリというわけではない。してみれば、戦争も退屈だ。彼はそう考えていた。ムリに入れあげるほど面白い遊びではない。やってくる敵は仕方がないから、せいぜい鉄砲の稽古を怠るわけにいかないような次第であった。
 こうして、彼は次第に老境に近づいていった。しかし彼が年老いても、彼を怖れる四隣の恐怖は去らないばかりか、むしろ強まるばかりであった。彼の腹の底も知れないし、彼の強さも底が知れなかった。いつになってもその正体がつかめないのだ。
 彼は大国の大領主ではなかったが、彼が老いて死ぬまでは誰も彼を亡すことができないように見えたのである。
 ところが彼が奪った血が、彼の胎外へ流れでて変な生長をとげていたのだ。そして意外にも、彼が奪った血によって、天の斧のような復讐を受けてしまったのである。

          ★

 土岐頼芸を追放してその愛妾を奪ったとき、彼女はすでに頼芸のタネを宿していた。したがって最初に生れた長男の義龍《よしたつ》は、実は土岐の血統だった。
 もっとも、この事実の証人はいなかった。ただ義龍がそう信じたにすぎないのかも知れない。道三はそれに対して答えたことがなかった。
 義龍は生れた時から父に可愛がられたことがない。長じて、身長六尺五寸の大男になった。いわば鬼子である。しかし、道三はそうは云わない。
「あれはバカだ」
 と云った。
 ところが、義龍は聡明だった。衆目の見るところ、そうだった。その上、大そう努力勉強家で、軍書に仏書に聖賢の書に目をさらし、常住座臥怠るところがない。父道三を憎む以外は、すべてが聖賢の道にかなっているようであった。
 道三は義龍の名前の代りに六尺五寸とよんでいた。
「生きている聖人君子は、つまりバカだな。六尺五寸の大バカだ」
 道三はそう云った。そして次男の孫四郎と三男の喜平次とその妹の濃姫《のひめ》を溺愛した。
「孫四郎と喜平次は利発だな。なかなか見どころがある」
 道三は人にこう云ったが、次男と三男は平凡な子供であった。彼は下の子ほど可愛がっていた。
 天文十六年九月二十二日のことであったが、尾張の織田信秀が美濃へ攻めこんだ。稲葉城下まで押し寄せて町を焼き払ったまではよかったが、夕方突然道三の奇襲を受けて総くずれになり、五千の屍体をのこして、わずかに尾張へ逃げ戻ったのである。
 尾張半国の領主にすぎない織田信秀にとって五千の兵隊は主力の大半というべきであった。この損失のために信秀の受けた痛手は大きすぎた。イヤイヤ信秀に屈していた尾張の諸将のうちにも、信秀の命脈つきたりと見て背くものも現れはじめた。
 信秀は虚勢を張って、翌年の暮に無理して美濃へ攻めこんだ。もっとも、稲葉城下へ攻めこんだわけではなく、城から遠い村落を焼き払って野荒ししたにすぎないのである。
 ところが天罰テキメン。無理な見栄は張らないものだ。野荒しの留守中に清洲の織田本家の者が信秀に敵の色をたて、信秀の居城|古渡《ふるわたり》を攻めて城下を焼き払って逃げたのである。
 信秀は慌てて帰城して対策を考えたが、清洲の織田本家はいま弱くても、とにかく家柄である。これを敵に廻してモタモタしていると、味方の中から敵につくものがどんどん現れてくる可能性がある。
 清洲の本家が信秀から離れるに至ったのは落ち目の信秀がいずれ美濃の道三に退治されてしまうと見たからであろう。
 清洲の本家ともまた美濃の道三とも今はジッと我慢して和睦あるのみ。こう主張して、自らこの難局を買ってでたのは平手政秀である。
 平手は直ちに清洲との和平を交渉するとともに、一方美濃へ走った。道三に会って、信秀の長男信長のヨメに道三の愛嬢濃姫をいただきたい、そして末長く両家のヨシミを結びたいと懇願したのである。平手は信長を育てたオモリ役であった。
 軽く一ひねりに五千の尾張兵をひねり殺して信秀の落ち目の元をつくったのは道三だ。その道三は益々快調、負け知らず、美濃衆とよばれて天下の精強をうたわれている彼の部下は充実しつつあるばかりだ。
 信秀が負け犬の遠吠えのように美濃の城下を遠まきに野荒しをやって逃げたのも笑止であるが、腹が立たないわけではない。しかるに、野荒しのあとに、三拝九拝の縁談とは虫がよすぎるというものだ。
 ところが道三は意外にも軽くうなずいた。
「信長はいくつだ」
「十五です」
「バカヤローの評判が大そう高いな」
「噂ではそうですが、鋭敏豪胆ことのほかの大器のように見うけられます」
「あれぐらい評判のわるい子供は珍しいな。百人が百人ながら大バカヤロウのロクデナシと云ってるな。領内の町人百姓どもの鼻ツマミだそうではないか。なかなかアッパレな奴だ」
「ハア」
「誰一人よく云う者がないとは、小気味がいい。信長に濃姫をくれてやるぞ」
「ハ?」
「濃姫はオレの手の中の珠のような娘だ。それをやる代りに信秀の娘を一人よこせ。ウチの六尺五寸のヨメにする。五日のうちに交換しよう」
「ハ?」
 平手は喜びを感じる前に雷にうたれた思いであった。怖る怖る道三の顔を仰いだ。老いてもカミソリのような道三の美顔、なんの感情もなかった。
「濃姫のヒキデモノだ」
 道三は呟いた。
 両家の娘を交換する。それは対等の同盟を意味している。しかるに今の道三と信秀は全然対等ではなかったのである。平手は七重の膝を八重にも曲げて懇願しなければならない立場だ。しかるに道三が対等の条件にしてくれた。それが最愛の娘濃姫を与える大悪党のヒキデモノであった。
 年内に濃姫は信長のオヨメになり、織田家からは妾腹の娘が六尺五寸殿にオヨメ入りした。信秀の本妻には年頃の娘がなかったせいだが、これでは対等を通りこして、道三の方が分がわるい。しかし道三は平気であった。
 難物と目された美濃との和平は一日で片がつき、弱小の清洲との和平に一年かかった。清洲の条件が高いのだ。そして、折れなかった。それほど信秀は落ち目であった。
 ところが道三は落ち目のウチの鼻ツマミのバカ倅に愛する娘をヨメに与えたのである。

          ★

 その四年後に、織田信秀は意外にも若く病死してしまった。落ち目の家をついだのは、いま評判のバカヤローであった。
 信長は父の葬場にハカマもはかずに現れて、香をつかんで父の位牌に投げつけた。バカはつのる一方だった。
 信長の代りに弟の勘十郎を立てようとする動きが露骨になった。しかし、その動きは信長にとっては敵であっても、織田家を守ろうとする動きである。背いてムホンするものは日ましに多くなった。
 平手はたまりかねバカを諌めるために切腹して死んだ。信秀のあとは、もう信長では持ちきれないと思われた。
 その時である。道三が信長に正式の会見を申しこんだ。道三は濃姫をくれッ放しで、二人はまだ会見したことがなかったのである。
「信長のバカぶりを見てやろう」
 道三は人々にそう云った。
 会見の場所は富田の正徳寺であった。正式の会見だから、いずれも第一公式の供廻りをひきつれて出かける。
 道三は行儀作法を知らないという尾張のバカ小僧をからかってやるために、特に行儀がいかめしくてガンクビの物々しい年寄ばかり七百何十人も取りそろえ、これに折目高の肩衣袴《かたぎぬばかま》という古風な装束をさせて、正徳寺の廊下にズラリとならべ、信長の到着を迎えさせる計略であった。
 こういう凝った趣向をしておいて、自分は富田の町はずれの民家にかくれ、戸の隙間から信長の通過を待っていた。いかに信長がバカヤローでも人に会う時は加減もしようから、誰に気兼ねもない時のバカヤローぶりを見物しようというコンタンであった。
 信
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