いったところを、待ちぶせた人々に斬り殺されてしまったのである。
この報をきくと、道三はただちに手兵をまとめて美濃の山中へ逃げこんだ。翌年四月まで山ごもりして、四月十八日、六尺五寸の悪霊と決戦のために山中をでて鶴山《つるやま》に陣をはったのである。
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道三が義龍に城をとられて山中へ逃げこんだから、それまで鳴りをしずめていた信長の敵は色めきはじめた。織田伊勢守のように、たちまち義龍と組んで信長の城下を焼き払う者もあり、やがて一時に味方の中から敵がむらがり立つ形勢が近づいていた。
四月十八日に道三が出陣と分ったが、もし信長が道三の援軍にでかけると、その留守に彼もまた城をまきあげられる怖れがあった。誰がまきあげるか分らないが、親類も重臣も、いつ背いてもフシギのないのがズラリとそろっているのであった。
しかし、道三を助けたい。勝敗はともかくとして、この援軍に出ることをしないようでは、織田信長という存在は無にひとしいと彼は思った。
しかし、その留守に城をまきあげられるようでは、道三を苦笑させるだけの話であろう。二十三歳の信長は全身の総血をしぼってこの難局と格闘した。
尾張の本来の守護職は斯波《しば》氏であった。その子孫は信長の居候をしていた。
三河には足利将軍家の次の格式をもつ吉良《きら》氏が落ちぶれて有名無実の存在となっていた。今川氏の世話をうけていたが、今川よりも一ツ格式は上の名家であった。
信長は今川に使者をだし、今後斯波氏を立てて尾張の大守とするから、三河も吉良を大守とたて、両家のヨシミを結びたいと申し送り、今川の同意を得た。すでに四月だ。
信長は自ら斯波氏を送って三河へ行き吉良氏と斯波氏参会、式礼をあげて、ヨシミをとげて、尾張へ戻る。つづいて、斯波氏を尾張の国守と布告する。自分は城の本丸を居候の斯波氏に明け渡し、それまで斯波氏が居候をしていた北屋蔵へ引越して隠居した。
こうしておいて、急いで美濃へかけつけた。もう道三の出陣だった。
自分の城が今では自分の城でなくて、斯波氏の城だ。彼はそこの居候の隠居にすぎない。この計略によって、信長の敵が彼の城を分捕ることを遠慮するかどうか。そこまでは分らないが、これが信長の総血をふりしぼって為し得たギリギリの策であった。
しかし道三は信長の援軍などは当にしていなかった。そのとき信長の所有した兵力は千かせいぜい千五百だ。美濃には万をこす精鋭がそろっているのだ。もっとも、兵力の問題ではない。人情などは、オックウだ。援軍などは、よけいなことだ。
「小僧め。ひどい苦労をして、大汗かいているじゃないか。、無理なことをしたがる小僧だ」
道三は苦笑したが、さすがにバカヤローのやることは、バカヤローらしく快いと小気味よく思った。
道三は信長を自分の陣の近所へ寄せつけなかった。味方の家来もずッと後へひきさげた。
道三は鶴山を降り、長良川の河原へでて陣をしいた。身のまわりに自分のわずかな親兵だけひきつれて、一番前へ陣どったのだ。
「鉄砲の道三が、鉄砲ごと城をとられては、戦争らしく戦争をする気持にならないわさ」
道三は笑って云った。
「お手本にある戦争を見せてやることができないのは残念だが、悪党の死にッぷりを見せてやろう」
そして家来と別れる時にこう云った。
「今日は戦争をしないのだから、オレは負けやしないぜ。ただ死ぬだけだ」
道三はヨロイ、カブトの上に矢留めのホロをかぶって、河原の一番前に床几をださせてドッカと腰かけた。
敵の先陣は竹腰道塵兵六百。河を渡って斬りかかったが、敵方に斬り負け、道三は道塵を斬りすてて、血刀ふりさげて床几に腰かけ、ホロをゆすって笑った。
つづいて敵の本隊が河を渡ってウンカのように突撃し、黒雲のような敵の中で道三はズタズタに斬られていた。
底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第三一巻第八号」
1953(昭和28)年6月1日発行
初出:「文藝春秋 第三一巻第八号」
1953(昭和28)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年4月15日作成
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