惨なる実体と同じ程度に文学の神様の悲痛極まる正体であつた。
 之に比べれば咢堂の眼は衆議院の議席からも国民の常識からもハミだしてをり、思考の根が人性そのものに根ざしてゐることを認めざるを得ぬ。彼は政治の神様と言はれてゐるが、文学の神様よりはよほど人間的であり、いはば文学的であつたのである。
 文化の低いほど人は狭い垣を持つ。国民は国民同志対立し、より文化の低い藩民は藩民同志対立し、もつと文化が低くなると部落と部落が対立すると咢堂は言ふ。かかる対立感情が文化の低さのみを原因とするかどうかは問題だが、之は咢堂の肉体的な言葉であり、いはば自らを投げだして対決をもとめてゐる文学的な一態度だ。日本人だのアメリカ人だのと区別を立てる必要もなく、誰の血だなどと言ふ必要もない。まもるに値ひする血など有る筈がないのだ、と放言する咢堂に至つては、いささか悪魔の門を潜つてきた凄味を漂はしてゐるのであるが、僕の記憶に間違ひがなければ、咢堂夫人はイギリス人であつた筈で、かうなると意味が違ふ。なぜなら純粋に日本人であり、日本人の女房をもち、日本人の娘があるとなかなかかうは言へないものだ。理論よりも本能の方が一応は
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