ことしかできないほど絶望もしてゐるのです。つまり彼は、僕とて同じことですが、まづ何よりも生きる意味が分らぬといふ状態なんです。そこで彼は生きてゐる自分自身を見出すために、何事かやりださずにはゐられないと焦せるのです。それは焦慮にすぎないながら、生存の本質を賭けたもので、殆んど必死でもあれば盲目的な激情を駆り立てさせもするでせう。そのくせ彼の最もやりたいこと、やる意味もあり値打もあること、やらねばならぬこと、つまり政治や文学は、それのもつ意味や値打に対する混乱と懐疑があるために、実は最もやりにくいといふ皮肉な状態にあるのです。もともとその混乱と懐疑から、この焦躁も生れてきたわけですから。そこで彼は、さういふ彼の混乱や懐疑にてんで引つかかる筈のない凡そ愚劣であり無意味である課題だけを、それが無意味であり無価値であるためにれいれいと自分におしつけることができ、又情熱の最後の一滴まで傾注して行ふこともできるといふ奇妙な状態にあるわけなんです。彼はタツノにてんで惚れてやしませんよ。恐らく殆んど関心すらもたないでせう。不用の時には犬ころのやうに投げ棄てたつて悔いも感傷もおこらないほど無関心のタツノの筈です。いはばタツノを引取ることは、ひとつの無意味を引取ることにほかなりません。つまりそこが彼自らも気付かざるこの行動の急所であり鍵でもあります。彼は自分に無意味な課題をおしつけやうとしてゐるのです。それによつて生存する自分自身の姿を見たり、または自分の生命とでもいふものを意識しようといふのですよ。無意味によつて意味らしきものをつくりだすこの惨めなカラクリのほかに、我々はさう易々と自分自身の生存を生命を意識する方法をもとめることができないのです。しかも彼には仲のわるい母親もあり、あなたもあります。あなたや母親がタツノに親切な筈はないから、彼はタツノを養ふために家庭といふ古い秩序と戦つたり、とにかく大きな努力を払ふ必要があります。家庭の破壊を賭け、ひいては自身の破壊すら賭けることの苦痛と混乱によつて、生きる意味と情熱を認識しようといふ、これも亦彼自らの気づかざる、あるひはむしろ知りすぎるほど知りぬいた、悲惨なカラクリのひとつでせう。最も無意味な課題によつて秩序や習慣と争ひ、ただ情熱と混乱をもたらすことが必要だつたにすぎないのです。軌道を忘れた浪曼精神の魔術ですよ。然しこんな情熱や浪曼的心緒が永続する筈はありませんから、むしろ彼に逆らはずほつたらかしておいたなら、情熱のやりばに困つて悲鳴をあげてしまふでせう。さうすることが賢明です」
 遠山の説く分析が思ひあたらぬことはなかつた。否むしろ遠山の語つた程度の良人の心理は知りすぎるほど見抜いてゐる松江だつた。たとへばタツノが安川の愛の対象でないことは、安川がタツノに就て彼女に語つたそもそもの日から、語る口ぶりからだけで充分わかるのであつたし、タツノを一目見たときにそれが裏書きされてゐた。安川はタツノを愛してゐないのだ、それは松江の確信だつた。
 遠山の語る長い分析をきいてしまふと、それが全然耳新しくないばかりか、自分の方がもつとはつきり知つてゐたのに松江は始めて気がついたのだ。さうして松江はさつき広場を泣きよろめいてさまよつたことも、一途に逃げたい激しさに駆られたことも、それが良人の姦淫を憎む気持であつたことに却つて吃驚《びつくり》するのであつた。ありもしない姦淫を! それの分つた今となつても、然し憎さは変らなかつた。
「だつて安川は卑怯です。変な女をつれこむことが恋愛に無関係であるにしても、わたしをいぢめるためなんです。いゝえ、わたしは分つてゐます。わたしを辱しめるためなんです」
 と松江は言つた。そして溢れる涙をふいた。松江は自分の喋つた事実に口惜し涙を流しながら、喋つた事実が思ひ違ひにすぎないことをはつきり気付いてゐる気がした。
「それは思ひ違ひです」と、再び松江に分りきつてゐることを、遠山は言ふのであつた。
「それはあなたの我儘です。かういふ出来事があなたにとつて口惜しいことは分つてゐますが、口惜しさをさうまで甘やかすのはあなたのためにとりません。自らの手で自分を不幸にすることですから。安川は、要するに、そんな女を引取つたりしなければどうにも足掻きのつかないどん底まで追ひつめられてゐるのです。勿論あなたに、それをいたはる義務や責任はないでせうけど」
「ええ、わたしいたはるなんて真つ平です。わたしがしたいと思ふのは復讐することだけですわ。だつてわたし、いぢめぬかれてきたんですもの。一生を棒にふつてしまつたのですわ」
「そのことだつて責任の一半はあなたにもあります。なぜつて、二人が一緒にくらしてゐるうちは、とにかく一方を全的に許容してゐる理窟以上の事実だからです。とにかく余り、神経をたかぶらせないの
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