夢であることの虚しさ。彼女はそれに気付くとき、心静かな日は安堵し、心に波の騒ぐ日は狂気の如く現実を憎んだ。
 安川の親しい友に遠山といふ男があつた。安川は彼をまことの悪党とよんだ。それは一種の愛称だつた。己れを愛すことのほかには誰を愛しもできない男。己れに向ける厳しさのために、彼は孤独を得たのであつた。自己のみ一人の人間で、他人は物にすぎなかつた。さういふ意味の冷血を意味するところの悪党だつた。
 遠山の苛烈な姿が松江の苛酷な現実へ影絵のやうにやがて移り住んできた。日毎々々の松江の昼夢に彼女自身も過程に気付かぬ変化がきて、古い男のそらごとのやうな幻想は消え、遠山を描く秘密の夢が育つのだつた。松江はそれを恋であるとは思はなかつた。なぜなら恋はやさしいものだ。さうして恋は清らかなものだ。百合や薔薇がふさはしいのだ。彼女はそれを信じてゐた。それだのに自分の描く二人の夢はみだらで汚く息がつまつた。肉体だけがのたうちまはつた。それを思ふと松江は無性に口惜しくなるのだ。盗まれた、何もかも、乙女も生活も金も恋も清らかさも。それをみんなあの男安川がしたのであつた。安川は悪者悪党悪魔だつた。あの悪党がわたしをこんなにしてしまつたのだ。わたしの睡つてゐるうちに汚い魂にすりかへたのだ。

 タツノ一行の襲来にはじきだされた松江は、雑草の繁みをよけながら、広場の中をぐるぐるまはつて口惜し泣きに泣いてゐた。あの悪党はひとをどこまで虐めつけたら気がすむといふのだらう。昔は人を死刑にしても憎み足りない気持の時は屍体に侮辱を加へたといふが、安川が自分に与へる侮辱にはまさしく自分の×××××××××××××××××××××××××××××、蛇にいちばんふさはしい残忍さだけ感じられて、その恐しさにぶるぶる顫へてしまふのだつた。
 逃げださう、と松江は思つた。どこへ逃げてもどうせ目当はないのだから、夜が落ちればいやでも帰らねばならないのだが、逃げたいといふ気持だけは追はれるやうに激しかつた。とにかくそれを処理しなければ我慢がならないのであつた。遠山のところへ逃げて行かう。行つてみんな話してやらう、あの悪党のしたことを、と松江は思つた。彼女に元気と悲しさが、ふと改めて流れてきた。
 遠山の住む汚い下宿は土足で階段を登るのだつた。その階段はどんなにソッと歩いても、気の遠くなる思ひがするほど金属質のたまらぬ音がひびくのである。その跫音《あしおと》のうるささが、松江に一生忘れることのできないやうな怖い思ひを感じさせた。
 遠山は不在だつた。はりつめた気がいちじに弛んだ思ひがした。それでよかつたと自分に言つた。とにかく此処まで来たことで気持は充分済んでゐると思ふのだつた。然し手紙を書き残さねばならないやうな心残りが、ぼんやり頭にからみついて離れなかつた。松江は廊下の窓に凭れて、外の景色を眺めてゐた。そこへ遠山が帰つてきた。
 松江は遠山に会つてみると、その時までとはまるで違つた自分自身を見出した。彼女は泣きもしなかつた。一部始終を語りながら、ひとごとのやうに時々苦笑をもらすのだつた。けれども時々薄い涙が瞳を掩ふた。
「その女なら知つてますよ」と遠山は言つた。「その酒場なら僕も一緒に時々飲みに行きましたから」
 そして彼はさとすやうに語りはじめた。
「それは御二人の夫婦生活を乱すやうな重大性をもつものではありません。あの女は安川の恋愛の対象でなく、性欲の対象ですらないでせう。第一これが恋人だつたら遮二無二隠す才覚に耽るでせうから、公然とうちへ引取るといふことが、つまりそれだけでしかないことを明瞭に語つてゐます。安川のさういふことをやらかしさうな危なさは、僕も前から感じてゐました。安川はあせりすぎてゐるのです。あの男の性格には英雄主義的な熾烈な生き方をもとめる傾向が人並すぐれて強く働いてゐますから、あの男の人生観、もろもろの抽象的煩悶は結局政治的関心へまで発展せずにはすみません。彼はずつと古くから共産主義に心を動かされてゐるのですが、彼を育てた個人主義的な教養と内省とが行動に走ることの一面の欺瞞を許さないため、いまだにぶすぶす内攻してゐるていたらくです。彼はまた富や名誉を手にいれたいと欲しながら、早くも富貴の虚しさに絶望するだけの苛酷な批判精神を植ゑつけられてゐますので、また恋をもとめてゐるくせに、その恋を実際掴みもせぬうちから已に恋のくだらなさに絶望もしてゐる退屈もしてゐるといふ状態です。いはばあの男は理智と本能の渾沌たる矛盾撞着の中に棲みくたくたに疲れきつてゐるやうなもので、たよるべき一つの信念とか真実を探りあてることができないのです。彼はまた文学に生きようといふ狂気にちかい情熱すらもつてゐますが、何を書くべきかといふ疑ひのために、さめる筈のないその情熱をさめたやうに感じる
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