で彼は改めて、こんどは大きな跫音をひびかせようと意識しながら階段を登つてみたが、跫音は彼の心が思ふ高さの半分くらゐを響かせるのがせいぜいだつたし、タツノはいくらか違つた姿勢でやつぱりねむりこけてゐた。思ひきつて部屋へ這入つて本を探してこようかと思はぬこともなかつたが、すくむやうな気臆れがいきなりグッとせまつてきて、彼はまた忽ちもはやどん/\階下へ降りてゐた。ちらと視線が流れたばかりにすぎないはずが、まるで眼の中へ焼きこまれたと思はなければならないやうな強烈な印画で、××××××××××××××視野いつぱいにひろがり、部屋いつぱいの大きさにふくらみあがり、安川の顔へめがけてわッとおしつけてくるやうだつた。
彼は再び階下の部屋をひとつびとつウロウロまはりはじめたが、さつき階下をぐるぐる一巡した時にはどこの部屋にも誰一人ゐなかつたといふ印象がいきなり頭をしめつけるほど強烈に意識にのぼり、心の構へが突然変つて、彼は部屋の各々に人気のないのをたしかめながら、息を殺して一巡した。果して誰の気配もなかつた。一応なにか、とにかく考へなければならないことがあるやうな気がして、彼は暫く茶の間の中央に突つ立ちながら耳を澄まして考へようとしてみたが、何も思ふことはなく、なにやらひどく張りきつた空虚が、めまひのやうにぐる/\めぐるばかりであつた。彼はとつぜん血の逆流する激しさとともに、二階めがけて駈け登つた。タツノはもはや目覚めてゐた。タツノの大きな鈍い眼がぼんやり彼をみつめたことを見たときには、彼はタツノ××××××、そして胸にだきしめてゐた。
驕慢の花もある筈がなかつた。現実にそんな詩情はないのである。それは安川の好色癖が、動物欲の汚らしさを救ふために勝手につくつた美名だつた。
手折らねばならぬ、踏みにじらねばならぬ驕慢の花なら、にじみでる高貴な構へが彼の心を射すくめる光となつて閃くことがあつてもよからう。そんなものは微塵もなかつた。
タツノはまるで彼のくるのを待ちかねてゐた妖婆のやうに、鼻皺をきざんで満足の笑ひを見せるのだつた。その表情を思ひだすと彼は思はずぞッとした。そのくせ彼はうづくやうなものを、そそりたてられる思ひもした。たまらない悪臭だけが分るのだつた。
金を盗むことにしても、さういふことのあつた日の彼に反抗するやうな或ひは彼を揶揄するやうな眼付にしても、そのほかの
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