同じ不倫を犯してゐれば松江の自責の圧迫は軽くなるのだ。
安川は松江に不倫をなじられるたびに、事実無根であることをはつきり言へる自分の心の動き方を顧て、これまでの算へきれない女の事情に比べれば、タツノに限つて×××××ですらないことがはつきり分つてくるのであつた。彼の場合にこんなことは稀だつた。それをすかさず利用して、鬼の首でもとつたやうに、事実無根であることを図に乗りすぎたと思はれるほど得々と、あまりいい気に言ひきつてゐる自分の姿が滑稽にすら見えるのだつた。そのうちに連日連夜の同じ答がうるさくなつて、まるで鼻唄をうなるやうに答へる習慣になつてゐたが、彼の心の張り方も同じ惰性でもはや鼻唄のたぐひであつた。鼻唄がむしろ彼の本性を教へてくれたのであつた。いつと分らぬ時間のうちに、タツノの痩せた肉体も、また熄みがたい×××対象であると彼は知つた。
もともと彼はタツノを愛してゐなかつた。然し不快な存在ではなかつた。いかに彼が酔狂でも、不快と知つて引取る筈はなかつたのだ。彼はタツノを引取る結果、疲れはて追ひつめられた日常に一道の朝の光が射してきて、色さめはてた内部外部に新鮮な蘇生の息吹がもどるやうに考へた。然しタツノの人柄は、恐らく衆目の見るところ、それにふさはしいものではなかつた。タツノは陰気で意地わるで意地つぱりで我儘だつた。髪は赤ちやけて縮れてゐた。不思議に眼だけ未明の沼を見るやうな鈍い大きな静寂を宿してゐて、それは永遠にただ朦朧と見開らかれ、睡りの後も、死後すらも、はりつめた不動の海を常にたたえて本の裏や紙の間の思はぬ場所にぼんやり残り、何を見つめてゐるともなく何か見つめてゐるやうな遠い思ひがするのであつた。タツノは無残に痩せ衰へて、手首は日陰の草の茎でもあるやうに透きとほる悲しい青さをたたえてゐたし、頬骨は痛々しいまで突出して、肉の落ちた顔の色は蝋人形の鈍い死色を宿してゐたが、面長のその輪郭に安川は幼稚と高貴を読んでゐた。とはいへ女の魅力はなかつた。然し安川はそれでよかつた。誰の眼に美しからぬものであらうと、すべては彼の受け取りやうにあつたのだから。さうして彼の見るところでは、宿なしの肺病やみの意地わるの陰気な娘を引取つて養ふといふことがらが、やつぱり蘇生の朝の光を迎へるもとであるやうな勇みきつた思ひがしたのだ。第一彼は亢奮した。思ひつきにすつかり酔つてしまつて
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