の心を探つてみても、袋小路や抜道のやうな恐れや策略があるものだ、と。然し私は、とりとめもない心の話に生憎こだはつてゐられない。解説に費す百万の語も心のまことの姿から遠距《とおざ》かるためにしか用ひられないものである。恐らく行為が、まことに近い解釈を与へる唯一の手掛りとなるだけだらうから。私はそれを言訳にして、話を先へ進めやう。
 遊ぶためにしか存在しない女、しかも決して羞しめられてはゐない女、然し又人並以上の誇りも持ち合せてはゐない女、蕗子の場合がさうであるが、こんな女は莫迦のやうにたわいはなくとも、トラムプの女王のやうなゆとりと重さはあるものだ。この女が私の住居へ華美な姿態を現はすたびに、近所の眼には、私の形がジャックに見えたに違ひない。美麗な衣裳に包まれた空虚な頭脳とぼんやり対座してゐる時に、屡々私自身すら自分が一枚のジャックにすぎないもののやうな奇妙な想念に襲はれて苦笑を洩したものであつた。
 その日私は、ひとつの貴重な約束の時間を、あと二時間の後にひかえてゐた。約束の場所へ出向く時間、多少の準備、それらの空費を差引くと、残る時間は多いものではないのであつた。冷静な又狡猾な頭脳の動きも、華麗な空虚をただ追払ふことだけで、勢一杯になつたのだ。
「叔父が自殺をするだらうなんて、考へられないことだ。第一、これはハッキリ断言できることだが、私と君の問題は叔父に気付かれてはゐないのだ。然し叔父を哀れな一人旅におつぽりだしておくのが気の毒だといふ理由で、君が万座へ叔父を迎へに出向く必要があるかも知れない」と、私は一語づつ噛みわけるやうな要心をもつて言ひだした。
 私は話の途中から、もはや焦燥のために坐つてゐることもできなかつた。立ち上つて壁にもたれ、衝撃のために表情を忘れた空虚な女王を見下しながら、全身の注意をあつめて力の籠つた言葉をついだ。言葉の落付きにも拘らず、私の心は動揺のために、全くうはの空であつた。
「明朝万座へ出発しなさい。女中を連れて。さうすることが必要だ。、そして、数日山の湯宿に泊るのがいい。それから叔父を同道して戻つて来たまへ。出発は朝の一番上野発。仕度を急ぐ必要がある。地図や、それから旅に必要な品物を私がこれから買ひ求めて、夜の八時に君の家で会ふことにしやう。そのとき、ゆつくり話をしやうよ」
 心に衝撃を受けたことと、愛人に会へたことと、その意見をはつきり聞くことができたために、一層の疲れが蕗子の失はれた表情の中に浮きたつてゐた。それ以上の私の言葉はもはや必要ではなかつたのだ。なぜといつて、それを咀嚼する根気もなく、何よりも全く理知の必要でない状態だつた。そしてただ本能によつて、私の強い抱擁だけを求めたい熾烈な希ひを、茫漠としたその蒼ざめた表情の中に、幽かながら根かぎりの努力をもつて表はした。私は蕗子を抱擁した。それから直ちに自動車に乗ると、蕗子をその家に送りとどけ、ついで私は重要な約束を果すために踵を返して横浜へ向つた。――

 芹沢東洋に三つの住所があつた。余談にわたるやうであるが、話を運ぶ都合上暫く脇道へそれて、芹沢東洋の為人《ひととなり》に就いて若干の言葉を費す時間を与へていただきたい。
 私の生家、栗谷川家は、越後平野の変哲もない水田によつて囲まれた五泉《ごせん》とよぶ小さな機業町に、代々機業を営んでゐた。景気不景気が同業を営む町全体に同じ浮沈を与へがちなこの町でも、栗谷川家はその代々の血管を流れる一様ならぬ投機癖のために、同じ浮沈を三倍にも五倍にも引受けるのが通例であつた。私の生家はもはや数代の昔から「ほらふきの家」と称ばれ、「山師の筋」とも称ばれ、時々は負けぎらひな「羽をむしられても喚きつづける鴉」のやうな精悍な気性を誇り得たことはあつても、むしろ概ね投機の打撃に打ちひしがれて尾羽打ちからした鴉のやうな乞食暮しをすることが多く、町民達の生きた「見せしめ」に引用されたり、笑ひ話の種になるのが普通であつた。さういふ一家の歴史の中でも芹沢東洋は特別ひどい逆境のさなかに生れた。二人兄弟の次男であつた。
 十一歳の春、芹沢東洋は小学校も卒《おわ》らぬうちに、縁故によつて京都のとある染物店へ丁稚奉公に送られた。
 十六歳の時、主家の縁戚に当る富裕な一未亡人にその画才を認められた。爾来この婦人をパトロンヌとして専心絵の修業に没頭することとなつたのだが、今に残る噂によつても、果してその画才を認められたものか、その容貌を認められたものか、判然としないと言はれる。それからの芹沢東洋は、名声のあがるところに必ずパトロンヌと金にめぐまれ、女と金と名声は恰《あたか》も三位一体のやうに彼の身辺を離れることがなかつたといふ。血気壮んな年齢に盛運を満喫したこの男は、調子に乗りながらもザジッグ的な厭世感をどうすることもできなかつた。彼はその年頃にシヨペンハウエルを最も熟読したと語つてゐる。不惑に近い齢を迎へて、最後のパトロンヌと入婿の形式をもつて結婚した。彼が芹沢姓を名乗るのは、この故にほかならない。女には先夫の子供が三人あつた。牝牛のやうに精力的で、悦楽のためにしか生きることを知らうとしない女の本能の迫力の前に、傷《いた》められ竦《すく》められた半生の姿をまざまざとかへりみながら、焦燥や怒りや悲しみを始めて痛切に感じたのだつた。女に愛された数々の記憶はあつても、心底から女を愛した覚えのない寂寥なぞも、いはば贅沢な感傷であるが、胸を流れた。それと同時に、又同様に、数々の絵を描き残しはしたが、ここに我ありと絶叫して悔ひない底《てい》の作品を嘗て物した覚えのない寂寥が、恰も女と表裏の関係をなすが如くに感傷の底につきまとひ、その焦燥や怒り寂寥悲しさを鋭いものにさせてゐた。
 扨《さ》て、蕗子は芹沢東洋が自分から働きかけた始めての女であつた。蕗子の愛をかちえた時、様々の難儀の後に、たとへば蕗子の家族との錯雑を極めた折衝なぞを乗り越えて、漸く蕗子を囲ふことができたときには、それが単に一女性の愛をかちえたことではなく、絵に就いても言ふまでもなく生活の全面に於て新らたな光りと出発を獲得したのだと熱狂して人にも語り、自らも固く心に信じたのは、一時の亢奮ではあつたにしても、贋物ではないのであつた。言ふまでもなく当時の彼の一方ならぬ寂寥や怒りや焦燥や悲しさから無我夢中に飛びついた一獲物ではあつたにしても、彼の心は偽りなしに、むしろ狂的なひたむき[#「ひたむき」に傍点]をもつて、全面の生活が、生命力が、ここに新らたに始まるのだと意気込んだのは無理に強めた空虚なかけ声ではなかつたのだ。勿論その正体は枯草のやうなものでもあつた。半年一年とたつうちには、始めの意気込みが過重な負担に変り、やがては形を変えてのつぴきならぬ絶望にさへ変つても、然も芹沢東洋は蕗子への愛と新らたな出発への光明をあくまで信じつづけてゐたほどであつた。
 芹沢東洋の囲ひ者となる時まで、蕗子は女子大学の学生であつた。生家も決して貧しくはなく、当然良家へ嫁して然るべき娘が、甘んじて不惑の書生の二号におさまるといふ異数の出来事を回想しても、私は当時の異常な情熱に燃え、熱狂に自失して最前線を疾走する傷ついた兵士のやうな猪突的な力強さで、蕗子の家族と折衝し、蕗子を励まし、又自らの妻子への自責の念と正面から戦ひぬいた叔父の姿は直ちに思ひだすことが出来るにしても、その表情と血の気の失はれた、なにやら一途に思ひつめた白痴的な、単に考へてゐる人形としか思はれない蕗子の冷めたい額付のほかには、叔父の情熱に比較しうる何等の激越な出来事も動作も蕗子に就いて思ひだすことが出来ないほどだ。この決して平凡ならぬ境遇の変化に直面しながら、蕗子の心にどのやうな思案の数々が去来したか、私の見るところをもつてすれば、私自身に手掛りの掴みやうがないばかりでなく、恐らく蕗子を除く何人にも想像の余地がないのだと言はざるを得ない。然しながら蕗子は蕗子なみの考へ方によつて、むしろ或ひは決然たる断案の示すところにもとづいて、甘んじて芹沢東洋の二号たることを選びだしたのであらう事実も、亦私はこれを否定することができないのだ。
 この非凡なる凡庸婦人を相手にして全霊を傾けた愛情を捧げ、新らたなる出発の光明に向つて飛び立たうとすることは、雲峯を押し煙幕に飛びかかると同じやうに手応へがなかつたに違ひない。出来合ひの聖母マリヤか架空の佳人を守護天使にして窃《ひそ》かに溜息をまぎらす方が、むしろ絶望の息苦しさを多少ともまぬかれたに相違ないのだ。古風な詩的情操を多分に持ちすぎた不惑の画家は、蕗子にひそむ聖霊を信じ、それにからまる自らの新らたな光りを、然しあくまで信じつづけてゐたのだつた。地に足のない信念が知らないうちにどんな大きな心の重荷に変つてゐたか、どんな深い絶望に変つてゐたか、そしてそれがだういふ形で現れたか?――即ち芹沢東洋は突然生れて第二回目の恋をした。生憎のことには、再び私の恋人に。……
 私は先程芹沢東洋に三つの住所のあることを一言述べておいた筈だ。即ちその一つは言ふまでもなく妻子の住む本邸であり、他の一つが蕗子の住居であることも断るまでもない話として、最後の一つが特に静かな郊外に建てられたアトリヱであつた。このアトリヱには留守番の形で、私と私の妹が住んでゐたのだ。
 当然本邸に附属して建てらるべきアトリヱをだうしてわざわざ遠い郊外へ運びだしたか? これには芹沢東洋の深謀遠慮と、充分の必要があるのだつた。このアトリヱは愈々蕗子が彼のもの[#「もの」に傍点]に定まつたとき、倉惶《そうこう》として工を急がせアラヂンの城の如くに建てられたものだ。かう言へば直ちにそれと気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのは聊《いささ》か笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳《はたち》頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。
 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而《したがつて》このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。芹沢東洋が第二回目の狂乱的な愛慕を寄せた伊吹山秋子は、それらの娘の一人であつた。従而、いはばアトリヱの主ともいふべき私が、伊吹山秋子と特殊な関係を生じることになつたのも、決して偶然ではなかつたのだ。
 叔父が秋子にひそかな思ひを寄せはじめたことは、その時々の偽りきれない表現から、相弟子達は無論のこと、私にも分つた。その頃から叔父の生活様式が変化して、授業が終ると早速引上げる習慣の叔父が、弟子を相手にいつまでも無駄話をするやうになり、娘子軍《じようしぐん》の一隊を引率《ひきつ》れて、散歩や映画を見廻ることが連日のことになつてきた。勿論叔父の目的が一人の秋子にあることは誰の眼にも明らかで、娘子軍の話題にもそれが公然のことになると、一大隊の連日の散歩も自然芹沢東洋と
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