竄ネいのだ。さうかといつてベエトオベンのクロイツェルソナタのやうな肉体や血のひしめいた懊悩を感じさせるものとも違ふ。いはば単に魂魄とか霊魂とでもいふものがどん底へ押し込められて、光もとどかない暗闇の奥で呻きだした。そんなものを感じさせるだけなんだよ。その曲を聴いたらピアノが欲しくなつたのだ」
「それを弾いてきかせないか」と長平が言つた。
「弾けないのだ。もともとピアノが弾けないのだよ。そのうちに習ひはじめるつもりだが、その曲を自分で弾きたい欲望もないのだ。きいてくれ。俺は近頃酒をのむのだ。一回に四合瓶一本づつ。毎日なんだ。夜が更ける、二時三時、すると俺は四合瓶をとりだして静かにゆつくり飲みだすのだ。決して人とは飲みたくない。この部屋の外でも飲みたくないのだ。この古ぼけた変哲もない俺の部屋が生き生きと蘇み返つてくるぢやないか。この部屋の中へ閉ぢこもつて為すこともなく失つてきた多くの時間が、然し決して無駄ではなく、それらがみんな蘇生して現実の俺の位置まで脈々と流れこんでくるのが分るのだ。不思議な魔力だよ。それ自体純粋だ。さうして、疑ふべくもない一つの現実だ。見給へ」
南雲二九太は立ち上つ
前へ
次へ
全125ページ中111ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング