のために蕗子に話しかけながらも内心ひどく苛々したことを書いた筈だ。自動車が横浜にはいると、準備、それは一つの買物であつたが、その時までは単に漠然とした焦燥でしかなかつたことが、改めて切実な問題となつて蘇つてきたのだ。私は突然車を止めると、愈々その品物を買ふことに心を決めたのであつた。何を? ありていを言へば、買物の品も実はその時はじめて選び定めたものである。一本のヂャックナイフ。私は最も無造作にその一本を買ひもとめて、再び自動車に身を投じた。あの時の気持では、私は最も常識的な、当然のことを順序正しく為しとげてゐる心算であつたが、振返つてみればかなり異常な亢奮が全ての心を攫《さら》ひあげてゐたのであらう。たしかに不当に殺気立つてゐたのであつた。
これも一つの準備であつたが、桜木町駅で秋子と待ち合す約束であつた。私は時間に遅れなかつたが、然し秋子は已にぼんやりと私の姿を待つてゐた。秋子の全身が色蒼ざめた感じであつた。私を迎へたその切なげな無表情が、物音けたたましい停車場全体を寒いものに思はせたほどだ。誇りを棄て、忍従と謙譲に身をまかした女の姿。それは私に、苦痛でもなく、悲しさでもなく、憂鬱でもない、全く名状の及ばない虚しい一つの感情を与へたやうに思はれた。
「私はこれから峠勇君に会ふ筈なのです。貴女も一緒に来て下さい」
と、私はいきなり突き当るやうな激しさで秋子に言つた。秋子は言葉で答へる代りに、私の眼を暫くヂッと凝視めてゐた。数秒の時が流れてから、唇をかすかに動かして、殆んど気配でわかる程度に点頭《うなず》いたのみであつた。その始終のうち彼女の冷めたい表情は微動だにしなかつた。怖れもなく怒りもなく悲しみもない顔であつた。わづか数日以前までこの表情を私が見たら恐らく苦痛が私の胸をしめつけたに違ひない。この日は然しその表情が私の心に決して深く絡みついてはこなかつた。
私は秋子と打ち合はす筈の多くの言葉を考へておいた筈であつた。然し秋子に会つてみると、全ての予定ももはや無役になつてゐた。あらゆる意味での「あとは野となれ山となれ」といふ気分が私の心を支配しかけてゐたのである。然し棄鉢といふよりも、確信的なものであり、責任を持たないことの反対の、万事自分で背負ひきつて一向他の容喙を顧慮せぬ底の根強い自信で、私は多く精神的な難関を斯様な我欲的な確信によつて誤魔化す習慣があつたのだ。全く無言のうちに、私達は約束の支那料理店へついてゐた。すでに豪傑が待つてゐた。豪傑はこんな場所で改めて見ると、苦味走つた、落付きのある美男子だつた。
私は豪傑を見た瞬間に苦笑を洩した。甚だ虚無的である点を除けば、むしろ微笑と言ふべきであつた。さうして、私の心に浮んだ第一のことは、秋子に向けられた私の心が一層さめた思ひがしたといふことである。私は突然自分はわざわざなんて無駄なかかりあひをするのだらうと考へた。こんな風に物々しく豪傑と会見する必要はなかつたのにと思ひついて、自分の物好きを後悔し、急に逃げだしたいほど阿呆らしくなつた。その意味から、私は豪傑を凝視めるなり、いきなり顔を赧《あか》らめてしまつたのだ。然し私は落付いてゐた。ただ、なんのために秋子を連れてきたのだらうといふ疑ひが、心の奥に瀰漫《びまん》してきた。心に相当なカラクリがあるな、と私は自分に言ひきかしたのだ。突然私はなさけなかつた。
「僕はこの人と結婚することになつたのです」
と、挨拶がすむと、私はいきなり言ひはじめた。この言葉は、今迄の内省には何等の関係も聯絡もないものである。私は用意しておいたのだ。
「不服があつたらこの場で言つて下さい。万事この場で済ましたいのです。子供は僕が育てます。そのことにも何か要求はありませんか? むしろ……」
私はふと軽い陽気にかられながら口をすべらした。
「養育費をもらいたいくらゐのものです」
私は自然に苦笑した。
私は然し、斯んな話が秋子にはどんな激しい侮辱であるかにふと気がついた。まるで私はその侮辱をきかせるために秋子をわざわざここへ連れ出してきたのではないかと思ひついたりしたのであつた。まさかに然《そ》うとも思へない。然し心の一部分で、私は全く混乱した。けれども私は言葉をつづけた。
「この人に関する限り、もはや貴君に何の権利もないものと思つて下さい。先日の一件のやうなことも、もはや理由の成り立たないことを認めていただかねばなりません。それに対して不平があつたら、それもこの場でききたいものです」
私は急にいやになつた。頭がくらくらしてきたのだ。
「貴女はもう帰つて下さい! どうにも、これはとんでもないことをしたやうだ……」
私は弾かれたやうに秋子の方を振向いて、叫んだ。勢一杯の感じであつた。とたんに心の一ヶ所で、畜生! 芝居をしてゐるな! と呟
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