。それから扉の外へころがるやうに走りでた。私は扉の外へ追つかけて出たが、彼はあはただしく下駄を突つかけ、一度今にも転びさうな間違ひをしたが、杖を拾つて闇の奥へ消え去つた。私は見送りながら舌打ちをした。私はいはれなく泣き喚く一人の子供に立ち去られたあとのあの謹厳なる憎悪のみを懐いたのである。
 妹がとびだしてきた。私に食ひつきさうな顔付で。――然しこの話はもう止さう。こんな時、ほかの親しい人達の顔を見ることは、思ひだすことすら、いはれなく苦痛だ。私はやがてアトリヱへ戻つてきて、一人になつた。私は大切な考へごとがあつたのだ。
 私は言ひ洩らしたが、叔父は私に二千円の金を渡していつたのだ。午前訪れた豪傑に支払ふための金であつた。生憎豪傑には悪党の凄味も新鮮味もなかつた。私は豪傑を見くびつてゐたし、幸か不幸か昨今の精神状態が何事よりもむしろ人殺しに適当な荒つぽさであつたので、一文の金も支払はずに見ん事豪傑を撃退する確信があつた。一文の金も要る筈がないと私は一応断言したが、金銭よりも煩らはしさに厭気がさしたに相違なく、種々な理由で白熱的な棄鉢《すてばち》気味にむしろ快く溺れたらしい叔父は、その意味では豪傑も恐喝も眼中にない様子で、二千円には鼻もひつかけない冷然たる挨拶だつた。
 そこで二千円の札束を私の懐に収めた瞬間からのことである。私の頭に突然思ひがけない想念の塊りが飛びこんできたのだ。それから叔父と対座した長丁場の二六時中、怪獣が泣き喚いた賑やかな時間でさへ、この黒々とした想念の雲は、私の脳漿にからみついて離れない。私が放心しても生きてゐる、さういふねぢくれた状態であつた。
 その想念とは?――夢の中では時々こうした思ひがけない想念を糞真面目に思ひついたり追求したり実行したりしてゐるものだが、現実では殆んど経験しないことだ。例へば諸君も記憶があらうが、かりに我々が十年一日の如く海を渡る船乗りであるとして、山のことには一向に不案内であるばかりか、山に対して微塵の野心も希望も持てない人間とする。ところが我々の夢の中では、我々が嘗て夢想だに及ばなかつたダムの設計技師と変つて、希望と勇気の全てのものを山岳と科学に打ちこんでゐたりする。夢の中の設計技師は自分の職業を疑ぐりもしないし、自分の仕事と希望に対して絶対の信念を懐いてゐたりするものだ。――私の想念が、現実に於て、この場合を再現したのだ。その想念とは二千円の使途に関することであつた。二千円を受けとることになつたのが思ひがけない出来事にしても、突然沸き起つた想念は、これは又決して他の如何なる正常な又異常な状態に於ても、単に奇妙な、気まぐれな思ひつきとして以外には再び有り得ないことに見えた。私は全く吃驚した。あまりのことに、ひやりとした。しかもこの唐突極まる想念が、決して一時の気まぐれな思ひつきで終りさうな様子がなく、私の頭に黒雲のやうな次第にふくれる広がりを持ちはじめていつかな離れる模様も見えないことを知つては、手をつかねて茫然と呆れるほかに仕方がなかつた。
 叔父の後姿を見送り、食つてかかる妹をふりはなして一人アトリヱに閉ぢこもつてみると、全てはハッキリしたやうに見えた。なぜといつて、私はもはやこの想念に抵抗できない状態であつた。この想念は已にしつかりした決意の形に変つて、単にその実行を残すばかりの牢固たるものにかたまる一方であつたから、私はもはや引きずられるほかに方法のない形であつた。
 ――してみると……私は思つた。
 ――ああ、夢を見る少年のやうな気持がするぞ。してみると、私のひとつの本心が、こんなところにも在つたのか! それにしても、どの奥深い襞の中に今まで隠れてゐたのだらう! どうにも遠い夢のやうな気持がするが……
 私は実際この想念がさては私の本心だつたかと一時改めて考へてみたりしたのだつた。さう思ふほかに、あの時としては恰好のつかない状態でもあつた。私は夜もすがらまんぢりともせず、この想念の実行に頭をめぐらしはじめたのだ。
 そこでこの思ひがけない想念とは?……私は暫くそれを言ふまい。私に対してそれが唐突であつたやうに、敢て読者にも唐突たらしめやうとするわけではないが、実は私の全く一片の気まぐれな悪戯心から、愈々私が二千円を投げだす時まで、この説明を一時あづかることとする。幸ひに諒されよ。

 叔父はそれから数日の後、例の放浪に出立した。出立間もなく私と蕗子に宛て旅の第一信が訪れたこと、これを遺書と読み誤つて蕗子が私を訪れたこと、蕗子に万座行きをすすめたこと、それらは已に冒頭に述べておいた通りである。
 話は元へ戻る。私は蕗子をその家に送りとどけ、ある大切な約束を果すために横浜へ向けて走りはじめてゐたのである。
 私は前に、この約束を果すためには多少の準備が必要であつて、そ
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