束を結んだうへで、この豪傑は落付払つて帰つていつた。
寸劇の最後に、私の決して忘れ得ない一印象を書き洩してはならない。
豪傑を送りだして応接室へ戻つてきた私は、泥細工の達磨よろしく固まりついた叔父の姿と、壁に倚り壁に顔を押し当てて、その壁面のある一ヶ所に空しい眼《まなこ》と五本の指をぼんやり遊ばせてゐる秋子の姿を認めたのだ。私の戻つた気配を知ると、秋子は突然喋りだした。やつぱり壁面の薄暗らがりを凝視しながら、私達には横顔を向けて、物憂げに、然し一つの金属的な硬鋭なものを閃めかして言ひだしたのだ。
「あたしのお父さんたら、赤んぼのあたしに鬼のやうな怖い顔でおどかすことが好きだつたわ。あたし泣き叫んでいやがつたけど。……お芝居じみた荒々しい出来事なんて、ほんとは悲しくも可笑しくもありやしないわ。あたしもう子供ぢやないんだもの……」
私の胸は突然化石したやうだつた。私は今にも叫びをあげやうとしながら、怪しむやうに秋子を凝視《みつ》めた。もしも叔父がゐなかつたら――然し所詮日本人の私には思ひもよらぬ表現であるが――秋子をひしと抱きしめて何事か絶叫したい思ひであつた。
私は秋子の横顔をみつめ、そのみづみづしい襟脚をむさぼるやうに眺めつづけた。その襟脚は冷めたい小さな花びらのやうに私に見えた。腐つた肉。どうして女の肉体は時々救はれたやうに見えるのだらう? 私は心に呟いた。腐つた肉が腐らない肉よりも純潔に見え高貴に見えるのはどういふわけだ! さういふ事実にでつくはすたびに俺の心はひやひやする。その魔力が俺に苦手だ! 泥沼の中にだけ宝石は隠されてゐるといふ事実ほど俺の心を易々ひきづりこむ魔力はほかにない。それでいいのかと思ふたびに、俺はひつくりかへるほど吃驚してぞッとするのだ。女の頭《こうべ》に薔薇の花をかざすことが俺はきらひだ。俺は女に鞭をふりあげ、血みどろの身体をひきづる方が好きなのだ。そのくせ薔薇の花を見るたびに、一時に冷え、竦む心を痛烈に感じてしまふのはどういふ理由だ?――
私は秋子の襟脚を茫然と凝視めるうちに、劣情が地獄のやうな紅《くれない》に燃えひらめいてゐることに気付きながら我に返つた。狂ひたつ劣情の下積みの部分に、もはや私には判別のつかない様々の考へが意志が流れどよめき、こんぐらがつてゐるやうすだ。痺れるやうな重さだけが分るのであつた。私はほッと息をして叔父を探した。そして叔父を食ひ入るやうにみつめながら私は突然口走りはじめた。
「あんな愚劣なよた[#「よた」に傍点]者に今後絶対に喙《くちばし》を容れさせない解決法が一つあります――」私は言葉の途中から自分の喋つてゐることが殆んど分らない状態だつた。「僕と秋子さんと結婚することにするのです。フィアンセだ。あいつが横から喙を容れる権利はもはや絶対にありやしない……」
叔父は化石して私をみつめた。
「フィアンセといふ体裁にするだけの話ですよ」私は苦笑した。「あいつが引込んだらフィアンセの方も解消さ。そんな余興でもしなかつたら、貴方の代理で、一々あんな奴と莫迦真面目に取引してゐられますか!」
言葉の調子と一緒に、なぜか不思議な莫迦々々しさが全身の張力を抜きとるやうにこみあげてきた。突然私の喉をつきあげて、莫迦笑ひがこみあげてきた。
「みんな余興だ。ワハヽヽヽヽ」
私はバタンと扉をしめて、庭の芝生を横切ると、武蔵野の森をめざして散歩のために走りでた。
その夜であつた。叔父は再びアトリヱを訪れ、そして放浪に旅立つことを言ひだしたのだ。
ここで私は、私の心に起つた不可解な変化に就いて一言しなければならない。私は武蔵野を散歩しながら、もはや人々の立ち去つたアトリヱへ戻つて、物憂い白昼をすごしながら、静かな夜をむかへながら、私の決意は然し激浪の荒々しさで秋子と私との結婚の事を追ひまはしてゐた。その一事のみを熱のこもつた痺れる頭で追ひつづけてゐたのであつた。その時の心事を一言にして言へば、私はもはや秋子なしには生きられない思ひがしたのだ。然るに叔父の訪問を受け、対談の時をすごすうちに、話が愈々秋子のことに移つた頃には、私は秋子を一途に憎み蔑んでゐる自分の心を明確に意識した。この激変には一切の理由づけが無役に見える。私に分つた唯一のことは、理性では如何とも制しきれない根強い感情の波が、ひたむきに秋子を卑しみ蔑んでゐたこと、それのみであつたのだ。結婚の意志が失はれたのは愚かなこと、秋子の肉体があの時間から淫売婦の肉体に思はれたといへば、その蔑みの激しさは他言を費す要もあるまい。試みにあの夜の出来事を思ひだしながら書いてみやう。
叔父は私の顔を見ると、いきなり放浪に旅立つことを喚きはじめた。その話の内容から一々の効果まであまりに計算し心に期しすぎたがために、さながら喚くといふ慌
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