むと、私は危ふく叫びをあげるところであつた。それから改めて奇妙な来訪者を見直した私は、彼の両肩が壁のやうに岩乗《がんじよう》に張り鼻血が流れても呻き声をたてさうにもない冷酷な敵意を感じると、ふとむらむらと顔の中央に物も言はず一撃を加へてやりたい衝動を覚えた。然しそれは余談である。私は叔父に取次いだ。ある女の一身上のことで、といふ峠の言葉を伝へることが、むしろ冷汗の流れでるほど言ひにくく、叔父に対してただ気の毒に覚えたのはどういふ理由であつたらうか? 一瞬叔父は顔色を変えたが、直ちに落付きをとりもどした。
さて、ここに一つの珍妙な寸劇を書き加へて、我々のメロドラマが実は甚だ間抜けなものであることを読者共々笑ひながら慶賀したい。この建物はホールの右側に応接室があり、左側に画室があつた。私は再び現れて応接室の扉をあけ「どうぞこちらへ」と言つた筈だが、素朴な訪客は私の言葉に一向かまはず突然私の思ひもよらない方角へ落付払つて歩いていつた。彼は画室の扉を開けた。最も陳腐な悪役の気取りを思ひ泛べていただきたい。彼は開け放した矩形の上へ立ちはだかつて画室の内部をじろじろと見廻しながら、豪放な笑皺を口べりに刻みながら、大きな声で呟いた。「フフム。これがアトリヱか。却々綺麗な女がゐるぞ……」と。
私は咄嗟にむらむらすると、背面からやにはに足払ひで蹴倒してしまふ気持になつた。然しいざその瞬間になつたところで、蹴倒した後の大袈裟な騒ぎがたまらなく惨めな自分に思はれたのだ。二三の戯画的な不快な映像が流れるうちに、はづみをつけた左足で私は自然に力一杯豪傑の片足を踏みつけてゐた。顔を歪めた豪傑に「失礼」と私は言つた。「君の行く部屋はあちらです」
豪傑は怒りのために飛びかかる力を盛りおこさうとしかけたが、弱気の男が行動的に走つた場合のひたむきな殺気を私の構えに読みとると、急にぐらりと態度を変えて、悠々と肩をゆすつて応接室へ歩いていつた。小犬にかまはない猛犬のやうに。
私達を追ひかけて、画室の中から一人の女のけたたましい笑ひ声が沸き走つた。私は心に「しまつた!」と叫んだことを記憶してゐる。その笑ひが豪傑の荒々しい心を呼び覚ますことを私は怖れはしなかつた。私はただこの出来事が秋子の胸を突き荒すことを悲しんだのだ。笑ひ声をきいた時、私の身体は可愛い女の苦悶の呻きをきいたやうに冷めたくなつた。然し笑ひは秋子が発したものではなく、あぐりの声であることが分つたとき、私の最大の憎しみがあぐりに向けて閃いたことも忘れられない。その笑ひをきつかけにして、秋子は一直線にアトリヱの中央を横切ると、私のうしろから応接室へ這入つてきた。芹沢東洋は一番おくれて現れた。彼はむしろ茫然とした様子だつた。なぜといつて、秋子にこんな隠れた男のあることを知らないために、始めのうちは何のことやら皆目事情を呑み込むことができなかつたであらうから。
「あたしに恥をかかすなら、一思ひに殺しなさい!」と、低い声だが力一杯の怒気を含めて秋子は言ひ放つた。泪《なみだ》のこみあげる気配が肩にも背にも表れてゐた。
「人前で恥をかくぐらゐなら、あたしは死ぬ方がましです!」と、秋子は泪をおさへながら怒りにふるへて言ひつづけた。
私はむしろ茫然とした。こんな時、女は一途にこんな考へを持ち、こんなことを言ふものだらうか? 私は先づかやうな疑問に打たれたことを打ち開けやう。根本的に男と違ふ生物を私は始めて見出したやうに吃驚《びつくり》した。秋子に惹かれる一つの理由が分つたやうな思ひもした。一つの美と一つの尊厳を感じたことも事実であるが、その反動に、秋子の怒りが悲しみが直ちに私の心となつて言ひやうもなく遥かな奥に切々と悲痛なうねりが流れたことも否定はできない。
「なんの用できたのです! このうへあたしに恥をかかすつもりなら、あたしを殺してからにして下さい!」と秋子は殆んどききとれぬ声で叱咤した。
「家内は姙娠五ヶ月で、ちよつとヒステリイ気味のやうですな」と峠は秋子にとりあはずに、煙草をゆつくり点け終つて叔父に言つた。
「秋子は僕の家内です。勿論御存じのことでしたね。いや、僕はこのうへ何も言ひたくありませんな。言ふ必要はないでせう。言ふべきことがありますかな。秋子は僕の家内です。それで、さて、それから何か言ふ必要がありましたかな?」
「君はいくら欲しいのですか?」と芹沢東洋は思ひきつた顔付で言つた。
「けだもの!」秋子は殆んど掠れた響きで呟いた。
「五千円。それくらゐのところでどうでせう? 僕は北支那方面に野心と抱負があるのですよ」
斯様な愚劣な情景に多くの頁を費すことを私は止めやう。私の目配せがなかつたら、たとひ値切りはしたところで叔父は若干の金銭を即座に渡しかねないところであつた。万事私が今後の相談にあづかる約
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